しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

five pieces of 2013

2013年に読んで観てよかったものを備忘録として五本ずつ。今年はあまり映画は観られなかったのでパス。それにしても、雑事にかまけて年々読書量が落ちてきているのが深刻...。来年こそちゃんと本を読む生活をしたいと思う。


読んだ順

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』(丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳、河出世界文学全集)*1
小説を読むことで、心身が昂揚し血のめぐりがよくなり生きる力が漲ってくるというのはめったにない経験だけれど(過去には大西巨人神聖喜劇』やブルガーコフ巨匠とマルガリータ』で味わったくらいかなあ...)、この作品を読んだことは間違いなく、今まで読んだすべての小説の中で圧倒的な読書体験となった。この歳になってようやく「20世紀文学の金字塔」を読む機会を持てたことを神様に感謝したいくらい!年明けに腸炎で一週間のあいだすることなく床に臥せていたからこそ読めた長編小説。余韻に浸りながら次々と読みすすめた、川口喬一『昭和初年の『ユリシーズ』』*2みすず書房)、 デクラン・カイバード著・坂内太訳『『ユリシーズ』と我ら : 日常生活の芸術』*3水声社)もそれぞれにわくわくするような読書の愉しみとなった。


黒田夏子abさんご*4文藝春秋*5
五回ほどくりかえし読みかえして、この美しく中毒性の強い文体に心ゆくまで溺れるようにして浸った、その時間の何という悦楽!すべての事柄がぼんやりとした半透明の白い靄のなかで行われているような、巻き貝の螺旋のなかで海の響きをなつかしんでいるような、幼少の頃の記憶を喚起させるこの感覚。五官を刺戟してやまないすばらしい小説だった。この作品に眼を留めてくれた、慧眼という他ない蓮實重彦に感謝しなければならない。


田中純『冥府の建築家―ジルベール・クラヴェル伝』*6みすず書房
建築家、作家、未来派演劇の監督など多彩な顔をもつ芸術家ジルベール・クラヴェルの初の評伝は、「質感」「肌触り」といった感覚に重きをおき、従来の学術的な研究とはやや異質のアプローチでクラヴェルという奇才の生涯に迫っており、専門外の読み手にも十二分に愉しみが味わえる。未来派やバレエ・リュスとのかかわりにもわくわくしたが、何かに憑かれるようにして生きた人の物語はやはり強度が違う。一次資料を時間をかけ丹念に調査することで見えてくるジルベールの肖像は、読後もますます謎めいた人物として映り朧げな輪郭のみが顕われてくるという印象なのだけれど、その気の遠くなるような時間の厚みがおのずと纏うことになる贅沢さが、確かなものとして読み手に伝わってくる。充実の図版とともにひじょうに読み応えのある良書だと思う。幼いジルベールが子どもの頃に抱いたというクリスタルへの憧れがずっと気に掛かっている。彼が描写したテクスト「クリスタルの庭」を読んでみたい。


内堀弘『古本の時間*7晶文社
もういなくなってしまった人たちのことを書かせたら、内堀さんの右に出る人はいないのではないか、というくらいに滋味溢れる、本と人とその周辺を描いた愛すべきエッセイ。まるで、前にこんなことがありましてね、と内堀さんに語り掛けられているかのよう。読みおえてなお何度でも頁を開きたくなるのは、さながら『昔日の客』の平成版といったところでしょうか。本書の校正刷りを確認して亡くなられた、中川六平さんの置き土産。


・『ぽかん』03号(ぽかん編輯室)http://pokan00.blogspot.jp/
ちょうちょぼっこ真治彩さんの2年ぶりの個人誌。判型も変え、付録が二つもついた、まさにプライヴェートプレスならではの愉しさがよく顕われている冊子。山田稔さんの「名付け親になる話」が親密な距離で書かれた文ですばらしい。わたしもご縁があって左川ちかのことを書かせていただきました。


その他、よかった本...
・内藤三津子『薔薇十字社とその軌跡』(論創社、2013年)*8
尾崎俊介『S先生のこと』(新宿書房、2013年) *9
近代ナリコ『女子と作文』(本の雑誌社、2013年)*10
渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』(講談社現代新書、2013年) *11
富岡多恵子安藤礼二折口信夫の青春』(ぷねうま舎、2013年)*12
・柏木隆法『千本組始末記 : アナキストやくざ笹井末三郎の映画渡世』(『千本組始末記』刊行会、2013年) *13

・ナサニエル・ウェスト『孤独な娘』(岩波文庫、2013年)*14
ルネ・ドーマル『大いなる酒宴』(風濤社、2013年)*15
・ローベルト・ヴァルザー著、若林恵訳『ローベルト・ヴァルザー作品集 3』(鳥影社、2013年)*16
アントニオ・タブッキ著、和田忠彦訳『夢のなかの夢』(岩波文庫、2013年)*17
・W.G. ゼーバルト著、鈴木仁子訳『改訳 アウステルリッツ』(白水社、2012年)*18

池内紀『架空旅行記』(鹿島出版会、1995年)*19
・柏倉康夫『マラルメ探し』(青土社、1992年)*20
清水徹『書物について : その形而下学と形而上学』(岩波書店、2001年)*21
吉増剛造詩学講義無限のエコー』(慶應義塾大学出版会、2012年)*22
・現代詩文庫『川田絢音詩集』(思潮社、1994年)*23


観た順

フランシス・ベーコン展(東京国立近代美術館
まったく好みではないのに否応無しに惹かれてしまう自分がいて驚く。展示されていた舞踏譜を視て土方巽のことがにわかに気になりだし、それから一時期は土方巽の本や映像などに眼をそそいでしまう日日だった。そしてその呪縛のようなものは今も途切れることなくつづいている...。ベーコンの他に、郡司正勝展(演劇博物館)を見たこともかさなって、郡司正勝『古典芸能 鉛と水銀』を読み齧ったりもした。わたしがもし土方巽に間に合っていたならば、彼の舞台を正視できただろうか...否、という気がする。それくらいすごい言葉が紙の上にもあった。


ターナー展(東京都美術館
人物画は微妙なのでさておき、あの大気と光の質感を間近に観ることができただけでもよかった。ターナーの水彩画のすばらしさに気付かせてくれるきっかけとなったのは、ゼーバルトアウステルリッツ*24白水社)を読んだことだった。


・加納光於 色身(ルゥーパ)―未だ視ぬ波頭よ2013 展(神奈川県立近代美術館鎌倉)
何といっても瀧口修造がくりかえし言葉を費やした作家ということで、自然と衿をただす気分で鑑賞。ご本人もいっけん物腰柔らかな方に見受けられるけれど、内に秘められた強靭な意志を感じさせる。「自分の仕事につけるタイトルには、もう一つ別の等高線を言葉によって作りたいという願望がある。作品と言葉のどちらかに寄るのではなく、その中間地点にいたい」とのお話。虹いろの色鉛筆で図録にサインをいただく際に、昨年12月の慶應のシンポジウムでもお話を聴きました、と言ったところ「そんなにいつも出ているわけではないのにねえ...」とちょっと困ったような顔で苦笑いをされていたのが印象的だった。


・山下陽子 未踏の星空 展(LIBRAIRIE6/シス書店) 
恵比寿の素敵なギャラリー・シス書店で隔年おきに開催される山下さんの展示をいつも愉しみにしているけれど、今年もほんとうにすばらしかった。オブジェも素敵だったけれど、特にシュルレアリスム的な世界をモティーフとしたコラージュの美しさは他の追随を許さない域にまで到達しておられるのでは。コラージュでは凛とした横顔の少女が望遠鏡を覗いている作品、オブジェでは泉をたたえたような黒い瞳の梟の子を描いた版画を封じ込めた星型の函が特に素敵だった。山下さんの作品はそのコスモスに吸い込まれてゆくようでいつまでも眺めて飽きない。


・ジョセフ・クーデルカ展(東京国立近代美術館
粒子の粗いざらついた質感のモノクロームの写真はヨーロッパ特有のメランコリーをたたえていて、魅せられた。亡命者としてヨーロッパ各地を流浪しながら撮影した「エグザイルズ」が特にすばらしかった。安井仲治《流氓ユダヤ》を思いだす。パノラマ・カメラを使って撮影された一連の作品のなかで、いちめん靄に包まれたギリシャの雪景色があり「美しいなあ、アンゲロプロスの映画みたいだ」と思っていたら、年譜にちょうどその頃『ユリシーズの瞳』の撮影クルーとして同行したとあったので、おお!となる。


その他、よかった展示...
アントニオ・ロペス展(Bunkamuraミュージアム)
・近代洋画にみる夢 河野保雄コレクションの全貌 展(府中市美術館)
竹内栖鳳 近代日本画の巨人 展(東京国立近代美術館
・詩人と美術―瀧口修造シュルレアリスム 展(足利市立美術館)

12月最初の日曜日、足利市立美術館(http://www.watv.ne.jp/~ashi-bi/2013-takiguchi-jikai.html)にて《詩人と美術―瀧口修造シュルレアリスム》展を観た。お目当ては、吉増剛造さんの講演会「瀧口修造 旅する眼差し」である。


特急りょうもう号に乗り込んで、車中ではこの前東京堂書店のフェアで購った、吉増剛造『静かな場所』(書肆山田)を読んでいた。挿入された写真の粒だった大気と靄がかった光をまとったような質感が吉増さんの言葉とよく響いていてすばらしい。特に、小樽の港湾局?だったかを写した、時代のよくわからないようなふしぎな写真に妙に惹きつけられて、一度図書館で借りて読んでいるというのに、やはりこの一冊は手許に置いておきたいと思ったのだった。栗鼠の家を見上げる話しのところで降りる駅に着いた。


展示では、一粒の緑色のさくらんぼを描いた浜口陽三の作品に心魅かれた。その画の飾ってある場所だけがしんとしているようなひそやかさに。久々に吉祥寺の浜口陽三記念室を覗きに行きたいなと思う。ダリのリトグラフの作品群のなかに、ポートレートが蝶々や蛾でぐるり囲まれているものがあり、所蔵者が北海道立近代美術館だったこともかさなって、三岸好太郎...と思ってしまう。キャンバスを切り裂くフォンタナや、デカルコマニーやフロッタージュの手法を多く用いたエルンストの作品が、後年の瀧口自身によるデカルコマニーやバーントドローイングなどの創作物に影響を与えているということがよくわかる展示構成だった。


『詩と詩論』や『山繭』などの雑誌が復刻版であったのは残念だけれど、山中散生編『超現実主義の交流(L' ÉCHANGE SURRÉALISTE)』(ボン書店)は原本だったのでほっとする。というか復刻がないから原本なのか...。翻訳者の名前に、この前からふたたび調べものを開始した冨士原清一を見つけて、あ、そうだったか、と思う。雑誌記事にばかり気を取られていたので、書籍の方は著作以外をすっかり失念していた。


吉増さんのお話は、縦長の『余白に書く』の造本が、与謝野晶子『みだれ髪』に似ているという指摘からはじまった。なるほどそういわれてみれば確かに。わたしは書肆山田の奥付にも似ているなと思いながら話を聴く。一度きりの欧州旅行で写されたプライヴェート・フォトを大写しにして皆で見る。何とも魅力的なふしぎな写真でたえず一歩引いて対象との距離をおいている。間というのか、魔というのか。日本的なものとシュルレアリスト的なものとが入り混じったような。吉増さんから瀧口修造は「世界の裏木戸を撮る人」という言葉があった。世界の裏木戸なんて、すてきなフレーズだ。


それから、瀧口修造という人は書斎派ではなく、いつも「黒いだぶだぶのヴィニールバッグ」(吉増さんはこれに最後までこだわっておられるようだった)を持って現場に出掛けて行った、そんな人だったとの話もあった。それは聴講者からの質問で、小林秀雄との比較において語られていた(小林秀雄はすごい人だけれど、頭の中で全部考えていることでしょう、と)ことだけれど、わたしはその違いは結局、扱う対象の分野の相違なのではないのかしら?と思ったりもした。小林秀雄は文と批評の人で本を相手にし、瀧口修造は美術や舞踏を相手にしていたから現場に出向かなければならなかった、という違い。柳田国男も場に出掛けてゆく人だったと吉増さんはおっしゃっていたけれど、それは折口信夫もそうで、民俗学というフィールドワークが必須な分野で活動していたからに過ぎない?という気もしないでもないのだけれど...。


書肆山田が最初に刊行したリーフレット『草子』の二番目の著者になる予定だったのに、それが果たせなかったという話は、間奈美子さん主宰のアトリエ空中線10周年記念の会の時にも伺ったことだ。あの時、吉増さんはわたしのすぐ後ろの席で「今日は痛みと美にはさまれたような夜でした」とおっしゃっていて、その美しい言語感覚に魅せられた。今回ふたたびそのエピソードをお話されたので、吉増さんにとって記憶の引出に大切にしまわれているのだなとあらためて感じた。


図録では、巌谷國士による瀧口修造と小樽についての論考があり、興味深い。小樽の情景が色濃く綴られているという散文「冬」を読もうと思う。夏ごろに『詩学講義 無限のエコー』(慶應義塾大学出版会)を読んでうすうす感づいてはいたことだけれど、小樽は瀧口にとってこれほど重要な場所であったのだ。小樽という港町が二十歳のころの瀧口にどのような感化を与えているのか、わたしもすこし頭をふって考えてみたくなった。何しろ、別目的(《左川ちか展》)とはいえ、今年は小樽に足を運んだのだから。


美術館付属の小さなミュージアムショップで、デューラーの描いた栗鼠の絵葉書を見つけて、図録と一緒に購った。往きの車内で栗鼠の家を見上げる話を読んでいたことをふっと思いだして。夕刻、列車の車窓から見える暮れゆく空は、群青から青、赤紫、淡い水色のグラデーションで、展示されていた瀧口の使いさしのパレットの色あいによく似ていた。

T先生のこと

平塚市美術館へ《藤山貴司》展を観に行く。


藤山先生は、と書いてみて、わたしはかつて一度も「藤山先生」などと呼んだことはなかったのだから、貴司先生、と書く方がしっくりくる。貴司先生は、子どもの頃に通っていたアートフォーラムの先生だった。2008年に58歳で亡くなられた。夏の盛りの暑い日だった。


アートフォーラムに通っていたのは、いつ頃だったか。

たぶん小学校の三、四年生頃からではなかったか。アートフォーラムといっても、こちらはほんの子どもで、クレヨンを蝋燭に溶かして虹色のキャンドルをつくったり、銅板に錐と金槌で星々や月を点描したランプシェードをつくったり、壁紙に自由に絵を描いたり、といったことをしているだけで、ほとんど遊んでいるようなものだった。五年生になると、油絵をはじめた。サムホールからはじめたように思う。油絵の才能がないことは、自分でも早々に気付いていたので、中学生になる頃には、ほとんど絵筆を持つことは止めてしまっていた。ある日、教室に置いてあった大判の画集を気まぐれに眺めていて、はっとするような画を発見した。暗闇のなかで横を向いた少女が蝋燭のにぶい光に照らしだされている。その光と闇のコントラストのすごさ。物思いに沈んでいるような表情で、その手の先には髑髏があった。大人になって、この絵がジョルジュ・ド・ラ・トゥールの《マグダラのマリア》であることを知った。


子どもの頃に、こんな啓示のような体験をさせてくれたのが、貴司先生のアートフォーラムだった。それは何と贅沢な時間だったことか。その後、別の街に引越してアートフォーラムには通えなくなり、わたしの幸福な子ども時代は終わりを告げた。


貴司先生の描く画は、孤独な思索を思わせる。


モノクロームの大作の背景には、世界中の言語がローベルト・ヴァルザーのmicroscriptsのようにびっしりと書き込まれている。遠くから見るとまるで石碑に彫り込まれた文字を眺めているような感覚がある。たんに書き込むというよりは、刺青のように一筆ずつ彫り込まれた傷のような。頭を垂れてうつむいた馬の、長い睫毛でふちどられた大きな瞳は涙を流しているかのようで、モノクロームの画面に降る黒い雨は、静かな哀しみをたたえている。ふと、「ディアスポラ」という言葉が浮かんだ。


2007年に、銀座の村松画廊で観た遺作も展示されていた。あれだけモノクロームの世界に住んでいた人が最後に遺した作品は、おだやかな暖かみのある白い光に包まれていた。出口に掲示されていた年譜を見て、貴司先生は諫早市生まれなのだと知った。こちらはほんの子どもで、そんなことすらも知らなかった。


《藤山貴司展 −闇と光の交錯 その彷徨と回顧−》は平塚市美術館にて、12月1日まで開催中。
http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/art-muse/2013205.htm

金井美恵子『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』(新潮社、2012年)*1読了。金井美恵子は新刊が出るとすぐさま買いもとめる僅かな作家のひとりだったのに、ここ数年はすこし興味の方向が小説からずれてしまったこともあり、今まで読まずに来てしまっていたのを、図書館の書棚を眺めていて「あ、そういえば」と手に取り、ここへきてようやく読む機会をもった。


うねるような饒舌文体の肌触りを久しく忘れていたが、読み進めると、ああ、この懐かしい感じ、これこれ、と嬉しくなってくる。生地と生地のあいだに織り込まれているさまざまな映画のイメジ――ボリス・バルネット『青い青い海』で真珠の頸飾りが床にはらはらとこぼれ落ちるシーン、胸板の厚い水夫役にぴったりな、若き日のヴィクター・マクラグレンを映画館の暗闇で眼に焼きつけた、ハワード・ホークス『港々に女あり』、そして水夫役といえば、子猫を肩にのせたミシェル・シモンの破天荒な魅力が溢れんばかりの、あの素晴らしきジャン・ヴィゴアタラント号』、さらには、戦時中とは思えないようなあかるい笑顔を振りまきながら轟夕起子が唄う「お使いは自転車に乗って」(マキノ正博『ハナ子さん』)までが次々と目眩く輪舞のように想起されるので、もう何だかその嬉しい目配せに行き当たるたびに、ひたすらににんまりとしてしまう。


この小説がいつもの金井美恵子と違うところがあるとすれば、語り手をかつて少年だった「私」としていることかもしれない。文中に出てくる剣玉少年のくだりには、剣玉がことのほか上手だったという澁澤龍彦吉岡実を思い出したりもした。


扉の岡上淑子さんのコラージュが神秘的でとても美しい。この小説全体を覆っているドレスや布、衣裳にかんする、やや偏執的とも思えるほどに費やされた言葉の数々を眺め見るだけでも、床に届くほどのマキシ丈の、ドレープが豊かに波打つドレスを身につけた女性が虚空を見つめるような眼差しですっくと立っている、岡上さんのコラージュにインスパイアされたことがよくわかる。


この本を読みながら、わたしもわたしの幼年時代のとりとめのない記憶の断片を思いだしていた。善福寺川に架かったS橋のたもとに群生していた、夕方になると咲く白粉花のどことなく寂しげな匂い、種を割るとまっ白な粉が出てきて子どもごころにその白さに魅せられたこと、雨のあとでアスファルトの窪みに出来た水溜まりに虹色の油膜が浮かんでいるのを見つけて、飽かず水面を眺めていたこと...。もうあることも忘れていたような記憶の深い層に手を差し入れ、開けなくてもいいような引き出しをそっと開けて光に曝すような。


ところで、水溜まりの油膜がつくる人工の虹に魅せられたのは、どうやらわたしだけではなかったようだ。

撒水電車の撒く虹は 並木の風にあふられて 午後の路上ですぐ消える だが見給へ 軌道(レイル)の石の水たまりに 機械油(オイル)がうすい羽を光らす
竹中郁「午後三時」/『木曜嶋』1巻1号(1927年6月)所収)


ちょうど水溜まりの油膜の虹についてつらつらと考えていたので、昨日、国会図書館の閲覧室で偶然この詩に行き当たってよろこんで書き写した。海港詩人倶楽部が刊行していた『羅針』11号(1926年6月)の編集後記には「たけなか」の署名で「これは余事だが、誰か伊良子清白詩集「孔雀船」を私に譲って下さる人はないだろうか」とあるのを見つけて、すこし嬉しくなってしまう。そういえば、竹中郁には「関西詩人風土記」というきっぱりと筋のとおった、この詩人の眼の確かさを感じられる鮮やかな一文があり、そのなかで伊良子清白にも触れていたのだった。


海港の詩人・竹中郁の第一詩集は『黄蜂と花粉』であるが、このタイトルに行き着くまで「海にひらく窓」→「海の日曜日」という変遷を経たことも判った。『羅針』(1925年4月)の受贈雑誌には『青樹』『亞』と並んで『GGPG』が見えるし、同9号では最上純之介(平井功)が寄稿しているのも、小さな交流の輪が垣間みれるようで、これまた興味深いことだった。

近代ナリコ『女子と作文』(本の雑誌社*1を読む。


この本で採りあげられた書き手はほとんどが女性であり、男性であれば「女性が書く」ことをモティーフにしたものを扱っている。『トマトジュース』シリーズの大橋歩尾崎翠も投稿していた『女子文壇』で筆をふるっていた大正〜昭和期の歌人・今井邦子、森開社による全詩集が刊行されるなど再評価の機運が高まっている左川ちか(今秋には小樽文学館*2で展示もあるらしい!ワオである)、古本漁りがもたらす奇縁というか醍醐味と言うべきか、手許に巡ってきたT氏の「恋愛貼込帖」...。近代さんの言うところの「いわゆる文学の領域とはべつのところで書いている人のもの」(あとがきより)は、現在のわたしの読書ではほとんどなじみがない分野なので、どのエッセイもそれぞれ新鮮でおもしろく読んだ。それに、近代さんの文章はひらがなと漢字のバランスが絶妙に洒落ていて好きなのだ。


なかでも、大橋歩の『トマトジュース』シリーズ*3には、個人的な思い出があるのでひたすら懐かしくたのしく読んだ。母親の本棚に差してあった本で、子どもの頃にお気に入りでよく眺めていたのだ。何冊かあったと思うけれど、特に『二杯目のトマトジュース』は、黒の背景にハート型の真っ赤なトマトが模様として描かれた装幀が好きだったので憶えている。他に親の本棚から眺めていた本で気に入っていたのは『家庭の医学』と『The Best of LIFE』で、今にして思えば、『家庭の医学』は図版がグロテスクなところが、『The Best of LIFE』はとにかく写真のインパクトが、そして、この本はほのかなエロティシズムを感じ取れるところが、子どもごころに気に入っていたのだと思う。幼かったのであまり文章を読めたわけでもないだろうけれど、イラストの方はよく憶えていて、いたずらっぽく歯を剥き出して、丸々と太った裸の天使が描かれていた。このたびの読書で、はじめて当時の大橋歩の文章をきちんと読んで、ほとんど眺めるだけだった本の中でかの女はこんなことを書いていたのか...としみじみ思った。確かに、かの女の無防備でストレートな文章は、どこか武田百合子にも似た不思議な魅力がある。思えば、幼少期の『トマトジュース』シリーズの愛読(?)からはじまって、刷り込みが効いていたからなのだろうか、個人誌『アルネ』が発刊された時は迷わず買って読んだし、着物の着こなしも小さな本で参考にしていたし、今は今で、真夏にもなればイオギャラリーでつくったベルレッタの麦わら帽子をかむり、エードットの幅広パンツなぞを履いて生活している。そうか、わたしはこんなにも大橋歩が好きで影響を受けていたのだ...ということを、近代さんの本を読むことで今更ながら教えてもらった。これまでまったく意識したことがなかったけれど。


大橋歩さんには、一度だけイオギャラリーでお会いした、というか、お見かけしたことがある。あのパッツンおかっぱに丸眼鏡のいつもの大橋さんがお店に入ってきてぱっと眼が合った。次の瞬間、こちらの眼を見たままにっこり微笑んでくれた。とても感じの良い方だった。『トマトジュース』シリーズ、まだ実家にあるのかな。読み返してみたくなった。


あとがきの「孤独だから書く」「書くという孤独」というフレーズがとてもいい。ほんとうにそうだと思う。どんなかたちであれ、文章を書く女性ならば、誰でもそう思うのではないかしら、「孤独だから読む」「読むという孤独」とセットで。この本のなかでもとびきりの孤独を感じさせる、左川ちかについて書かれたエッセイを読んでいたら、むしょうに左川ちかのポルトレに触れたくなって、江間章子『埋もれ詩の焔ら』をつづけて一息に読んでしまったことも付け加えておきます。


近衛秀麿の奥さんが清水宏『港の日本娘』に出演している女優の澤蘭子だとは知らなかった!

*引用されているどの文章も強度が高いけれど、とりわけサイコちゃん(17歳)の日記の破壊力は強烈。

*1:ISBN:9784860112431

*2:http://otarubungakusha.com/next/201303967

*3:同じく大橋歩が表紙を描いた『生活の絵本』の書影もまた懐かしい。母と一緒に三歳の頃のわたしが載っている号がある。