しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

12月最初の日曜日、足利市立美術館(http://www.watv.ne.jp/~ashi-bi/2013-takiguchi-jikai.html)にて《詩人と美術―瀧口修造シュルレアリスム》展を観た。お目当ては、吉増剛造さんの講演会「瀧口修造 旅する眼差し」である。


特急りょうもう号に乗り込んで、車中ではこの前東京堂書店のフェアで購った、吉増剛造『静かな場所』(書肆山田)を読んでいた。挿入された写真の粒だった大気と靄がかった光をまとったような質感が吉増さんの言葉とよく響いていてすばらしい。特に、小樽の港湾局?だったかを写した、時代のよくわからないようなふしぎな写真に妙に惹きつけられて、一度図書館で借りて読んでいるというのに、やはりこの一冊は手許に置いておきたいと思ったのだった。栗鼠の家を見上げる話しのところで降りる駅に着いた。


展示では、一粒の緑色のさくらんぼを描いた浜口陽三の作品に心魅かれた。その画の飾ってある場所だけがしんとしているようなひそやかさに。久々に吉祥寺の浜口陽三記念室を覗きに行きたいなと思う。ダリのリトグラフの作品群のなかに、ポートレートが蝶々や蛾でぐるり囲まれているものがあり、所蔵者が北海道立近代美術館だったこともかさなって、三岸好太郎...と思ってしまう。キャンバスを切り裂くフォンタナや、デカルコマニーやフロッタージュの手法を多く用いたエルンストの作品が、後年の瀧口自身によるデカルコマニーやバーントドローイングなどの創作物に影響を与えているということがよくわかる展示構成だった。


『詩と詩論』や『山繭』などの雑誌が復刻版であったのは残念だけれど、山中散生編『超現実主義の交流(L' ÉCHANGE SURRÉALISTE)』(ボン書店)は原本だったのでほっとする。というか復刻がないから原本なのか...。翻訳者の名前に、この前からふたたび調べものを開始した冨士原清一を見つけて、あ、そうだったか、と思う。雑誌記事にばかり気を取られていたので、書籍の方は著作以外をすっかり失念していた。


吉増さんのお話は、縦長の『余白に書く』の造本が、与謝野晶子『みだれ髪』に似ているという指摘からはじまった。なるほどそういわれてみれば確かに。わたしは書肆山田の奥付にも似ているなと思いながら話を聴く。一度きりの欧州旅行で写されたプライヴェート・フォトを大写しにして皆で見る。何とも魅力的なふしぎな写真でたえず一歩引いて対象との距離をおいている。間というのか、魔というのか。日本的なものとシュルレアリスト的なものとが入り混じったような。吉増さんから瀧口修造は「世界の裏木戸を撮る人」という言葉があった。世界の裏木戸なんて、すてきなフレーズだ。


それから、瀧口修造という人は書斎派ではなく、いつも「黒いだぶだぶのヴィニールバッグ」(吉増さんはこれに最後までこだわっておられるようだった)を持って現場に出掛けて行った、そんな人だったとの話もあった。それは聴講者からの質問で、小林秀雄との比較において語られていた(小林秀雄はすごい人だけれど、頭の中で全部考えていることでしょう、と)ことだけれど、わたしはその違いは結局、扱う対象の分野の相違なのではないのかしら?と思ったりもした。小林秀雄は文と批評の人で本を相手にし、瀧口修造は美術や舞踏を相手にしていたから現場に出向かなければならなかった、という違い。柳田国男も場に出掛けてゆく人だったと吉増さんはおっしゃっていたけれど、それは折口信夫もそうで、民俗学というフィールドワークが必須な分野で活動していたからに過ぎない?という気もしないでもないのだけれど...。


書肆山田が最初に刊行したリーフレット『草子』の二番目の著者になる予定だったのに、それが果たせなかったという話は、間奈美子さん主宰のアトリエ空中線10周年記念の会の時にも伺ったことだ。あの時、吉増さんはわたしのすぐ後ろの席で「今日は痛みと美にはさまれたような夜でした」とおっしゃっていて、その美しい言語感覚に魅せられた。今回ふたたびそのエピソードをお話されたので、吉増さんにとって記憶の引出に大切にしまわれているのだなとあらためて感じた。


図録では、巌谷國士による瀧口修造と小樽についての論考があり、興味深い。小樽の情景が色濃く綴られているという散文「冬」を読もうと思う。夏ごろに『詩学講義 無限のエコー』(慶應義塾大学出版会)を読んでうすうす感づいてはいたことだけれど、小樽は瀧口にとってこれほど重要な場所であったのだ。小樽という港町が二十歳のころの瀧口にどのような感化を与えているのか、わたしもすこし頭をふって考えてみたくなった。何しろ、別目的(《左川ちか展》)とはいえ、今年は小樽に足を運んだのだから。


美術館付属の小さなミュージアムショップで、デューラーの描いた栗鼠の絵葉書を見つけて、図録と一緒に購った。往きの車内で栗鼠の家を見上げる話を読んでいたことをふっと思いだして。夕刻、列車の車窓から見える暮れゆく空は、群青から青、赤紫、淡い水色のグラデーションで、展示されていた瀧口の使いさしのパレットの色あいによく似ていた。