しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

『EUREKA/ユリイカ』ふたたび

ことし桜が満開の頃にこの世を去った、青山真治の『ユリイカ』をテアトル新宿で観た。

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この映画をはじめて観た時は、こちらが若かったこともあり、こういった細部がどうも鼻についてしまって、あまり肯定的に見られなかった記憶がある。年月を経て立派な中年として再見すると、ロマンティストの芸術家・青山真治の美学がよく顕れている映画だなと思う。一枚一枚の厳格な画は痛々しいほど純粋だ。

冒頭の、問題のバスに乗る二人を見送る、ゆっくり手を振る母親の不穏さがいい。ビュル・オジエの白痴美ではないけれど、白昼につばのひろい麦わら帽子をかぶり、白いワンピースを身に着けて、その動作の遅さが、何もかもが陽光の白に飲み込まれてしまう、うだるような夏の退廃を思わせてすばらしい。

田村正毅によるカメラのセピア色の画調は、画面奥がピンぼけで靄がかっているので、例えば、高山正隆の大正期の新興写真のようにも見える。一瞬、小鉢に入ったお菜(きんぴら?)が写るのもいい。この画調で物を撮りたくなる気持ちはよくわかる。鉄橋をくぐる移動撮影も、オリヴェイラ『ドウロ河』の冒頭みたいでダイナミックでかっこよかった。ふと、列車の車窓から見た、八幡製鉄所の外観を思い出したりもした。北九州人特有の鉄のある風景へのこだわりかもしれない。

土砂降りはやはり『浮草』を思い起こしてしまうし、沢井の味方でいた、白いピケ帽子の祖父はどうしても小津に重なる。自転車二人乗りは『キッズ・リターン』のようでこれも絵になる。おそらく母親の趣味だろう、ファンシーな装飾でまとめられた室内に貼られた、アウグスト・ザンダー?の結婚式の写真と梢の撮るポラロイド写真。弓子の台詞「あなた、わたしを生きなかったわね」は北村太郎の詩集『冬の当直』に出てくるフレーズだ。死期の迫った肺病の男が子どもを守るのは『グラン・トリノ』のコワルスキーにどこか重なる。ラストに差し掛かってセピア色の画面が色彩を回復するのを「ダサイ」と、その昔浅田彰は書いたが、洗練の方向にはゆかず、スタイリッシュにも陥らない、誤解を恐れずにいえば、いい意味で愚鈍というか、野暮なほどまっすぐなところこそが、青山真治の魅力ではなかったか。それをいまここでは「純な心」(フローベール)といっておこうか。旋回するカメラ、カセットテープも回る、利重剛役所広司も背中合わせに回る。The Music Goes 'Round and 'Round.

西部劇さながらのロングショット。「画面を横切る一本の真っ直ぐな線」「一本の線を必ずどこかに残しながら撮っている」とは、蓮實重彦氏が『週刊読書人』の対談で言っていたことだ。

兄妹の寝姿に被さる光と影のさざなみ、その白と黒のコントラストはフィルム・ノワールのようでもあるが、あれはやはりジャン・ヴィゴアタラント号』なのか。成瀬巳喜男の『歌行燈』の木漏れ日も思い起こさせる。

トラウマを抱えているのは3人とも同じなのに、宮崎あおい演じる梢の心の傷はさほど描かれず、かの女だけが強く達観していて、女性讃美的な面もある。あれは『夜ごとの夢』の栗島すみ子なのか。あるいは、溝口映画の山田五十鈴なのか。

何を描いて、何を描かないか。そのあたりの潔さが凡作とは一線を画している。セリフや物語で説明はしない、あくまで画の力強さで押す。モーション・ピクチュアはこうでなければ。

宮崎将はクーリンチェの少年に似ていた。セイタカアワダチソウのような背の高い雑草が生い茂るなかの横顔のショット、ナイフで切れば植物の白い髄液が断面からあふれでる。そのはっとするような残酷な美しさに、彼はカメラを向ける。

受け手の共感を引き出す意図で、なんでも伏線回収!(例:『花束みたいな恋をした』)というような昨今のわかりやすさからは遥かに遠く離れて、わからないものはそのまま謎として置き去りにされる。そのことの豊かさ、贅沢さ。正解のかわりにながい余韻がある。海に入水する梢はまるで『山椒大夫』の香川京子のようだ。梢の眼を通して、直樹に海を見せるところに、青山真治の優しさを見て、すこし涙が出た。「あなたの目になりたい」(サッシャ・ギトリ)。

SNSで垣間見る彼は皮肉屋で意地悪な印象もあったが、優しい人だったのだ、きっと。しかし、こんな映画を作っていたのだから、青山真治はなんて孤独だったのだろう。その孤独の深さを思う。