しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

近代ナリコ『女子と作文』(本の雑誌社*1を読む。


この本で採りあげられた書き手はほとんどが女性であり、男性であれば「女性が書く」ことをモティーフにしたものを扱っている。『トマトジュース』シリーズの大橋歩尾崎翠も投稿していた『女子文壇』で筆をふるっていた大正〜昭和期の歌人・今井邦子、森開社による全詩集が刊行されるなど再評価の機運が高まっている左川ちか(今秋には小樽文学館*2で展示もあるらしい!ワオである)、古本漁りがもたらす奇縁というか醍醐味と言うべきか、手許に巡ってきたT氏の「恋愛貼込帖」...。近代さんの言うところの「いわゆる文学の領域とはべつのところで書いている人のもの」(あとがきより)は、現在のわたしの読書ではほとんどなじみがない分野なので、どのエッセイもそれぞれ新鮮でおもしろく読んだ。それに、近代さんの文章はひらがなと漢字のバランスが絶妙に洒落ていて好きなのだ。


なかでも、大橋歩の『トマトジュース』シリーズ*3には、個人的な思い出があるのでひたすら懐かしくたのしく読んだ。母親の本棚に差してあった本で、子どもの頃にお気に入りでよく眺めていたのだ。何冊かあったと思うけれど、特に『二杯目のトマトジュース』は、黒の背景にハート型の真っ赤なトマトが模様として描かれた装幀が好きだったので憶えている。他に親の本棚から眺めていた本で気に入っていたのは『家庭の医学』と『The Best of LIFE』で、今にして思えば、『家庭の医学』は図版がグロテスクなところが、『The Best of LIFE』はとにかく写真のインパクトが、そして、この本はほのかなエロティシズムを感じ取れるところが、子どもごころに気に入っていたのだと思う。幼かったのであまり文章を読めたわけでもないだろうけれど、イラストの方はよく憶えていて、いたずらっぽく歯を剥き出して、丸々と太った裸の天使が描かれていた。このたびの読書で、はじめて当時の大橋歩の文章をきちんと読んで、ほとんど眺めるだけだった本の中でかの女はこんなことを書いていたのか...としみじみ思った。確かに、かの女の無防備でストレートな文章は、どこか武田百合子にも似た不思議な魅力がある。思えば、幼少期の『トマトジュース』シリーズの愛読(?)からはじまって、刷り込みが効いていたからなのだろうか、個人誌『アルネ』が発刊された時は迷わず買って読んだし、着物の着こなしも小さな本で参考にしていたし、今は今で、真夏にもなればイオギャラリーでつくったベルレッタの麦わら帽子をかむり、エードットの幅広パンツなぞを履いて生活している。そうか、わたしはこんなにも大橋歩が好きで影響を受けていたのだ...ということを、近代さんの本を読むことで今更ながら教えてもらった。これまでまったく意識したことがなかったけれど。


大橋歩さんには、一度だけイオギャラリーでお会いした、というか、お見かけしたことがある。あのパッツンおかっぱに丸眼鏡のいつもの大橋さんがお店に入ってきてぱっと眼が合った。次の瞬間、こちらの眼を見たままにっこり微笑んでくれた。とても感じの良い方だった。『トマトジュース』シリーズ、まだ実家にあるのかな。読み返してみたくなった。


あとがきの「孤独だから書く」「書くという孤独」というフレーズがとてもいい。ほんとうにそうだと思う。どんなかたちであれ、文章を書く女性ならば、誰でもそう思うのではないかしら、「孤独だから読む」「読むという孤独」とセットで。この本のなかでもとびきりの孤独を感じさせる、左川ちかについて書かれたエッセイを読んでいたら、むしょうに左川ちかのポルトレに触れたくなって、江間章子『埋もれ詩の焔ら』をつづけて一息に読んでしまったことも付け加えておきます。


近衛秀麿の奥さんが清水宏『港の日本娘』に出演している女優の澤蘭子だとは知らなかった!

*引用されているどの文章も強度が高いけれど、とりわけサイコちゃん(17歳)の日記の破壊力は強烈。

*1:ISBN:9784860112431

*2:http://otarubungakusha.com/next/201303967

*3:同じく大橋歩が表紙を描いた『生活の絵本』の書影もまた懐かしい。母と一緒に三歳の頃のわたしが載っている号がある。

書庫で一冊:ローベルト・ムージルの語る短篇小説

「問題としての短編小説。一人の人間を殺人へと駆り立てる体験がある。五年間の孤独な生活へと駆り立てる体験もある。どちらの体験がより強烈か。およそそんな風に、短篇小説と長篇小説は区別される。突然の精神的興奮が明確な輪郭を保つと短篇小説になり、あらゆるものを吸収する精神的興奮が長く続くと長篇小説になる。ご立派な作家は、自分の考え方や感じ方を刻みつけることのできる人物や着想を意のままにできれば、いつでもご立派な長篇小説を(同様に戯曲を)書くことができるだろう。そうした作家の発見する諸問題は並みの作家だけに意味を与えるのであって、強靭な作家はあらゆる問題の価値を切り下げるからだ。強靭な作家の世界は異なっていて、あらゆる問題は地球儀上の山脈のように小さくなるからだ。しかし、そうした強靭な作家が例外としてのみ、重要な短篇小説を書くのだと考えたい。というのも重要な短篇小説とは彼ではなく、彼に襲いかかる何か、一つの震撼だからだ。生得の何かではなく、運命の摂理だからだ。――このかけがえのない体験のなかで、突然世界は深まる、あるいは彼のまなざしがくるりと向きを変える。こうした例一つで彼は、真実の相においてすべてがどうであるかを見る思いがするのだ。これが短篇小説の体験である。」


「......現実の状況の重みが突然、言葉の連想の糸に沿ってさらさらと流れ始めるのである。ただし、こうした連想はヴァルザーにおいてはけっして純粋に言葉の上のものではなく、常に意味の連想でもあるので、彼が今まさに従っている感情の線が大きくはずみをつけるように身をもたげ、迂回し、満足げに揺れながら新たに誘われる方向に進んでゆくのである。それは戯れではないと言い張るつもりは本当はまったくないのだが、いずれにせよそれは――ほれぼれするほど並々ならぬ言葉の熟練ぶりにもかかわらず――作家としての戯れではなく、人間としての戯れであって、多くの柔和さ、夢想、自由、われわれの最も強固な信念さえもが心地よい無関心へと弛んでしまう、あの一見無意味で怠惰な日々の一日がもつ道徳的な豊かさを備えている。」(ローベルト・ムージルムージル・エッセンス 魂と厳密性』(中央大学出版局、2003年)より、「文芸時評 短篇小説考・ヴァルザー・カフカ」p.81〜82)

週末、大型書店に鳥影社から刊行中のヴァルザーの新刊『ローベルト・ヴァルザー作品集3』*1を買いに行ったのだが、あいにく品切であった。たぶん発売日を待ってすぐにもとめた人がいたのだ。わたしはちょっと出遅れた。今は、ゼーバルトを読んでいるので、じっさいにヴァルザーを読むのはもう少し後になるけれど、ふと、一昨年の欧州旅行の際にやりとりをした、ベルンにあるRobert Walser Zentrumのハートマンさんという方のとても親切なメールを思い出した。「ヴァルザーセンターの開館は水〜金曜日の13時から17時までで、もし日時を指定してもらえるなら、当日誰かを案内役として送り出しますし、もしローベルトとカール・ヴァルザー兄弟に興味をお持ちなら、ベルンから列車で30分ほどのビールという街にある、Museum Neuhaus in Biel (http://www.mn-biel.ch/index.php?lang=de)の訪問も考えてみたらいいでしょう。ここの博物館は、ヴァルザー兄弟の常設展示があるのです」とのことだった。結局、候補として挙がっていたベルン行きは中止になってしまったので、ハートマンさんのご厚意に添うことはできなかったのだけれど、ヴァルザーの一読者としては、ベルンとビールは、いつか行ってみたい場所のひとつだ。

chiclin アトリエショップのこと

親しい友人のmitsouこと奥村麻利子さん・健男さん夫妻が、今月11日に東急大井町線尾山台でアトリエショップをオープンしました。大きく窓を採った明るい白い部屋で、気持ちのよいところです。床は確か薄いグレイだったと記憶しているけれど、それ以外は壁も椅子もテーブルもすべて真白に塗られているのが、とてもふたりらしい。31日からはオープニング・イヴェントとして、オーダーメイドの受注会も予定しているそうですので、初夏のお散歩がてらぜひどうぞ。近くには等々力渓谷や有名なお菓子屋さん「オーボンヴュータン」もあるそうです。わたしは新作の青いワンピース(着てみると形がとてもきれい!)をいただきました。早く袖を通したいなー。


「chiclin」
http://www.chiclin.jp/

「みつのあはれ」
http://www.mitsou.org/news.html

生島遼一『春夏秋冬』所収の「弟の玉子焼」というエッセイは、しみじみよい書きものであるが、そのなかに期せずして中村正常の名前がちらと出てきたので、久しぶりに尾崎翠のこと(id:el-sur:20090625)を思い出した。あの珠玉の文章作品を書いた翠が『詩神』のアンケートで「会ってみたい人」として挙げているのが、すこし意外なことに、新興芸術派のナンセンス・ユーモア作家、中村正常なのである。午後、必要があって、書庫で第一書房時代の『悲劇喜劇』を繰っていたら、終刊号の後記を書いているのは、なんと中村正常なのであった。そして、この号には翠がまさに言及した戯曲「アリストテレスの後裔」(初出か?)が掲載されているではないか。なんというシンクロニシティ...これだから本を読むのは止められない。


さらに今日は、紙縒りで補修されて戻ってきた、細江英公の写真集『土方巽DANCE EXPERIENCEの会』を眺めていたら、田村隆一の「四千の日と夜」とともに、ノヴァーリスの詩を引用した冨士原清一詩篇「成立」が載っていたので、とたんに脈が上がる。作者紹介にはこんな文章があった。

冨士原清一(生年不詳)は、一九ニ七年に発刊された日本におけるシュール・レアリストの雑誌「薔薇・魔術・学説」の発行者であり、アラゴン、エリユアルの最初の紹介者だった。太平洋戦争末期ビルマで戦死したと伝えられる。「現代詩大系」(河出書房版)「現代詩人全集」(創元文庫)のいずれにも彼の作品は収録されていない。荒地(詩と詩論)より抜粋


これは土方巽が選んだのだろうか?それとも、田村隆一の推薦による?冨士原清一については、真治彩さんの『ぽかん』02号に短い文章を載せていただいたことがあります→(id:el-sur:20111125) というか、この写真集は去年 Akio Nagasawa Publishingより二冊組限定1000部で復刻されているんですね!新刊で読める冨士原清一とは、これは嬉しい。

生島遼一『春夏秋冬』(講談社文芸文庫*1


黄金週間のあいだに一度、他の本と一緒に読んでいたのだが、その時はあまりにもさらっと読んでしまったので、なんとなく再読したくなって、また読み返している。山田稔さんのいつもの抑制された、けれども、ふかい余韻の残る解説(そして、くすりともさせられる)を先に読んでから、また最初のページに立ち戻る。たとえば、解説文のこんなくだりにくすりとせずにはいられない。

調子のいいときは食事の後さらに、お茶を飲みに行こうかと誘った。お茶であって、酒ではなかった。そのお茶を先生は英語で言った。それは「チー」と聞こえた。(p.228)


フランス文学者の発音する「チー」には、なんとも言えないおかしみがある。若い人びとを前に神妙な顔つきで、生真面目に発音するだろう生島遼一の姿を思い描いて、ひとりでに頬が緩む。それから、本文に立ち戻ってみると、ここにも「チー」があるのを発見する。こんなくだりに差し掛かって、山田稔さんは生島先生の「チー」を思いだしたのだろうか。

鉄兵さんは文芸春秋チームのメンバーだったらしく、立派なユニフォームなんかをもっていた。小柄で敏捷だから、位置は二塁手と自分できめていて、セーフチー・バントなど得意であった。(「鉄兵さんの思い出」p.36)


「チー」のみならず、このエッセイ集のすみずみから匂いたつようにして現れてくる生島遼一その人の言語感覚(「えらい」「かわいい」といった言葉が見当たる)はすこしおもしろい。すぐれた翻訳家でもあり、京大名誉教授という輝かしい経歴の持ち主なのに、いや、だからこそなのだろうか、およそ衒学的でなく学者先生らしからぬところが、かえっておおらかな品の良さを感じさせる。これはわたしの好みの問題だけれど、やっぱり1900年代はじめに生まれた人の文章は読んでいて愉しいなあと思う。バルトやラルボーを引いて、読書なんぞは「暇つぶし」であり「罰せられざる悪徳」(ラルボー)であると、著者はややシニカルに書くようだけれど、読書をするものにとってよい文を読むとは、何ものにも替えがたいひそやかな秘密の愉しみであることを、よくよく知っておられたのではないか。本を読むことは、単調な人生の退屈を埋めてくれるかっこうの気晴らしとなるし、稀によい文に出遭うと、活字を追いながら、ああ、いいな、眼がよろこんでいるな、とわたしも思う。どのエッセイもしごく控え目であっさりとしているので、ややもすると読後の印象が薄い感もあるけれど、こちらも「チー」でも飲みながら、凝った頭をほぐす読書にはうってつけのようである。


山田稔さんによる解説*2は、これはたんなる解説文ではなく、教え子から先生を見つめたひとつのすぐれたエッセイであり、ラストの「これだろうか」などは真似してみたくなるような鮮やかさで、やっぱり上手いな、と嬉しくなる。またいつかのように山田稔の本を机上に高く積み上げてあれこれと読み返してみたくなった。そうだ、よい文章の条件というのは、くりかえし再読したくなるかどうか。これだろうか。

*1:ISBN:9784062901895

*2:あ、でも天下の講談社文芸文庫としたことが、『映画千一夜』はちょっとまずいです。『映画千夜一夜』がもちろん正しい。