しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

書庫で一冊:ローベルト・ムージルの語る短篇小説

「問題としての短編小説。一人の人間を殺人へと駆り立てる体験がある。五年間の孤独な生活へと駆り立てる体験もある。どちらの体験がより強烈か。およそそんな風に、短篇小説と長篇小説は区別される。突然の精神的興奮が明確な輪郭を保つと短篇小説になり、あらゆるものを吸収する精神的興奮が長く続くと長篇小説になる。ご立派な作家は、自分の考え方や感じ方を刻みつけることのできる人物や着想を意のままにできれば、いつでもご立派な長篇小説を(同様に戯曲を)書くことができるだろう。そうした作家の発見する諸問題は並みの作家だけに意味を与えるのであって、強靭な作家はあらゆる問題の価値を切り下げるからだ。強靭な作家の世界は異なっていて、あらゆる問題は地球儀上の山脈のように小さくなるからだ。しかし、そうした強靭な作家が例外としてのみ、重要な短篇小説を書くのだと考えたい。というのも重要な短篇小説とは彼ではなく、彼に襲いかかる何か、一つの震撼だからだ。生得の何かではなく、運命の摂理だからだ。――このかけがえのない体験のなかで、突然世界は深まる、あるいは彼のまなざしがくるりと向きを変える。こうした例一つで彼は、真実の相においてすべてがどうであるかを見る思いがするのだ。これが短篇小説の体験である。」


「......現実の状況の重みが突然、言葉の連想の糸に沿ってさらさらと流れ始めるのである。ただし、こうした連想はヴァルザーにおいてはけっして純粋に言葉の上のものではなく、常に意味の連想でもあるので、彼が今まさに従っている感情の線が大きくはずみをつけるように身をもたげ、迂回し、満足げに揺れながら新たに誘われる方向に進んでゆくのである。それは戯れではないと言い張るつもりは本当はまったくないのだが、いずれにせよそれは――ほれぼれするほど並々ならぬ言葉の熟練ぶりにもかかわらず――作家としての戯れではなく、人間としての戯れであって、多くの柔和さ、夢想、自由、われわれの最も強固な信念さえもが心地よい無関心へと弛んでしまう、あの一見無意味で怠惰な日々の一日がもつ道徳的な豊かさを備えている。」(ローベルト・ムージルムージル・エッセンス 魂と厳密性』(中央大学出版局、2003年)より、「文芸時評 短篇小説考・ヴァルザー・カフカ」p.81〜82)