しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

紀伊國屋書店の冊子『Scripta』誌上で平出隆さんの新連載「私のティーアガルテン行」がはじまった。

「ベルリンの幼年時代」にはふしぎなことに、双子の片割れのようなテクストとして、「ベルリン年代記」というものがある。同じくみずからの幼少期を回顧する文章にもかかわらず、その書きかたも調子もずいぶんと異なっている。[...]この二つもテクストを比較することはたいへん興味深いことであり...


というくだりを読みながら、平出さんにもまた、ベンヤミンがこの二つの書きものを記したように、同じ主題を別の顔貌をもったテクストとして現出させるという止みがたい感覚があるのではないかと思った。あるいは、あるものをいったん壊してしまって、新しい別の姿かたちをそこにあらわすことへの、どこかオブセッションめいた希求というか。最新の詩集『雷滴』*1においても、おそらくそういった手法が採られている。これは何と言うか、詩人や小説家の手法というよりも、むしろ画家のそれに近いような気がするのだけれども。同じモティーフに微細な違いを施し《別の作品》として繰り返し描き続ける、例えて言えば、モランディが静物画で試みたような...。


モランディといえば、先の欧州旅行の途上で、かねてから訪れたい美術館のひとつであった"Museo Morandi"*2に行ってきたのだった。画集は何冊か架蔵してはいたが、フラットな紙上で見るのとは違い、現物を間近に見るのはテクスチャが感じられて素晴らしい体験だった。モランディの色彩感覚は日本人好み。使われている色はどれも「日本の伝統色」に似て微妙にくすんでいる。モランディは面の画家。油彩画のなかには、キャンバスの地の色が透けて見えるほどのうす塗りで、画面の処理もすっかり塗りつぶすのではなく、ところどころ塗り残した部分もあり、完成しているのかそうでないのか曖昧な感じがする作品もあった。ほとんどスケッチの延長のような水彩画もおおいに気に入る。どことなく半抽象のようにも見える。たぶん、滲みやすい紙を使っているので、モティーフの輪郭が雨に濡れたようにぼやけてしまっており、それがなんとも朧な雰囲気を醸し出していて美しい。とはいえ、モランディの描く画には湿気というものはあまりないように思う。彼の使う色はいくつかの例外――彩度の高いコバルト・ブルーなど――を除くと、ボローニャの強い日射しのもと、白茶の乾き切った大地から舞い上がる砂埃の膜でうすく覆われた大気、といったものを感じさせるのだ。これは特に風景画において顕著なのだと思うけれども。