しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


ヴィルヘルム・ハンマースホイ展 静かなる詩情
Vilhelm Hammershøi: The Poetry of Silence(http://www.shizukanaheya.com/



国立西洋美術館にて、ヴィルヘルム・ハンマースホイの展示を観る。



何点かの風景画を除けば、ほとんどモノトーンとも言えるほど極端に制限された色遣いとそこに差す微かな光、または光すら見当たらない灰色の世界。「デンマーク絵画の隠れた王者」ヴィルヘルム・ハンマースホイの画の持つ、その気味の悪いほどの異様さにひどく惹き付けられた。



この画家を評する時にしばしば用いられる「静謐な」「詩情豊かな」というような紋切り型の言葉でこの画家を判ったつもりになることは、便利で心地好いことだが、たぶん危険なことだ。ハンマースホイの描く画はそんなものではないと思う。この画家の作品には、そんな耳障りのよい言葉の表面からは見出せない、もっと違う別の何かが潜んでいる、そんなことを強く感じた展示だった。



そもそも画において軸となるべきものが霧に煙ったようにぼんやりとしか描かれていないために、拠り所のなさを助長させ、そこにあるべきものの不在が観るものに不穏な感じを抱かせるのだ。



モデルとして頻繁に登場する妻のイーダの足は、黒いロングスカートの裾からは決して見えず、スカートの裾と床の色との区別がほとんどないがために床と一体になってしまっているような印象(彼女の後ろ姿はまるで幽霊のように見える!)を受けるし、《ローマ、サント・ステファーノ・ロトンド聖堂の内部》(1902年)では、どっしりとした石の重量感を持って描かれるべき円柱は、その土台となる地表にあるべきはずの影がほとんど描かれていないために、まるで蝋燭かなにかのように極めて心もとなげにそっと並べられて、宙づりになってしまっている。この奇妙な浮遊感は、偶然といえば偶然だが、先日観てきた長谷川りん二郎の絵画の持つ不思議な魅力にも通じるものがある。




《ふたりの人物像(画家とその妻)、あるいは二重肖像画》(1898年)では、向き合っている夫と妻は互いに視線を合わせようとはしない。こういう画の場合、夫婦の関係性がなんらかのかたちで画面に顕在化されるものだと思うけれども、ここでは、視線が交わされないどころか、互いの存在が肯定も否定もされておらず、孤立してそれぞれ切断された場所にいることのみが浮き彫りにされている。視線が交わらないというと、わたしなぞはすぐに小津映画を思い出してしまうけれど、ハンマースホイのそれは小津の次元を遥かに超えているものだ。



《イーダ・ハンマースホイの肖像》(1907年)、生気を失ったとも取れるような虚ろな表情、その顔と手の、何と不健康にくすんだ灰緑色に彩色されていることか!この画の中で無機物のカップのみがつややかに白光りして鋭い色を放っているのに対して、その中身をスプーンでかき混ぜているあたたかな血が通っているはずの手は、不気味な灰緑色を帯びていて、まるで死人のそれのように見える。



《3人の若い女性》(1895年)で描かれているそれぞれの女性たちは、画家の極めて近しい人々(義理の兄の妻、妻、画家の妹)であったにもかかわらず、それぞれの殻に閉じこもったまま、虚空を見つめているか(妻のイーダ)、書物に目を落としているか(妹のアナ)で、左の女性(義理の兄の妻のインゲボー)にいたっては不機嫌そうな表情さえ滲み出ている。さらに、右側の女性(妹のアナ)が目を落としている本は彼女の膝の上から浮遊し宙に浮いた状態になっているが、そこに添えられてあるべき手が描かれておらず、曲げられた腕も、指先も何もかもが描かれていない。おかしな画としか言い様がない。



初期に描かれた肖像画を除くと、後年に描かれる室内画ではほとんど後ろ向きの女性を描いているために、鑑賞者にその表情を読み取らせることを最初から拒絶している。稀に横向きに顔の表情を見て取れる画があっても、それらはまるで「のっぺらぼう」のように顔ははっきりと描かれていない。



そもそも、「肖像画を描くにはモデルのことをよく知る必要があるのです」というハンマースホイの言葉は、いったいどこまで信用できるものなのだろうか。ハンマースホイの描く肖像画において、モデルをよく知る必要などあったのか。わたしたちが目撃するのは「知る」という言葉の意味を根底から覆してしまうかのような印象の作品ばかりだ。中平卓馬の言葉を借りて言えば、これが「まずたしからしさの世界をすてろ」ということなのか、などと思ってしまう。



肖像画からは、いずれも「知る」ことを通じて獲得できるであろう、あたたかで親密な関係性などは何処にも感じ取れない。最愛の妻イーダはまるで死人のように灰緑色に青ざめたうつろな表情で虚空を見つめ、パトロンであった歯科医ブラムスンの交差させた腕は、どう観てもデフォルメしているとしか言い様がないほどにバランスがおかしい、短すぎるのだ。



おそらく、人物だけでなく、建物も、自然も、描く対象について「よく知る必要がある」と画家は考えていたのだろうが、その対象との距離はまったくもって埋められることはない。と言うより、そもそも、そんなものは最初から埋める必要がない、とさえ感じ取れるほどに、対象や鑑賞者を平然と突き放している。絵画を観ることによって、画家と親密な関係を築きたいなどと夢想する(わたしのような)無邪気な鑑賞者を、こんなにも突き放すように、冷たくあしらう画家を、わたしは他に知らない。



おそらく、ハンマースホイにとって完成された美というのは人物のいない室内空間だったのだろうと思う。彼にとって、人物とは、彼の理想とも言うべき完成された美の調和をかき乱す存在として常にあった。彼はたぶん恐る恐る人物を描いていた。だからこそ、彼の描く室内画において、人物(=後ろ向きの女性)は足を与えられることはなかった。足を描いてしまうことは、人物を人物たらしめる存在として画の中に認めてしまうことになるからだ。そして、足を描かなくても済むように黒いロングスカートの女性ばかりがモデルに選ばれた。こうして、本来、画のなかで主人公になりうる人物はしばしば床や椅子と一体化しているかのように、曖昧に、ぼんやりと、描かれた。傍役と思しきドアの真鍮の取っ手や、小さな絵の嵌められた額や、テーブルの上の白いカップなどは、あんなにもはっきりとした輪郭=線でもって描かれたというのに。