しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

青木繁《海の幸》、伊良子清白、モーリス・ドニセザンヌ礼賛》


青木繁《海の幸》をはじめて間近に観たのは、確か神奈川県立近代美術館の企画展だったような記憶があるけれど、それがいつのことだったかはもう思い出せない。とにかく「凄い絵だなあ」と思ったことだけはおぼえている。そのあと、ブリヂストン美術館の常設で何度もその画に対面することになったけれど、そんなことを思い出したのは、平出隆『伊良子清白』の中で、「海の幸」と題された章を見つけたからだ。それによると、明治38年(1905年)3月の「明星」には、有明や泣菫、啄木の詩篇とともに、青木繁の《海の幸》が単色の写真版で印刷されていたという。その前年の明治37年(1904年)の夏に《海の幸》は制作された。それを受けて、蒲原有明が詩を寄せたのは、明治37年11月の「明星」誌上においてであった。「有明は展覧会場で観て感嘆し、青木を訪問して詩「『海の幸』」を書き、さらに三十八年七月の詩集『春鳥集』刊行に際しても、絵の図版を併録した。」(「月光抄」p.150)と、ある。


診査医として、四国の海やまのあいだを行き来していた清白は、展覧会場でその画を観ることが叶った有明とは違い、おそらく、じっさいにこの画を観ることはかなわなかった。当時の祖末な単色刷りの印刷をとおして、この画と出会った。それでも、あきらかに《海の幸》を観たことが創作の源になっていると思われる詩篇「淡路にて」を明治38年9月の「文庫」誌上に発表した。


鳴門の子海の幸
魚の腹を胸肉に
おしあてゝ見よ十人
同音にのぼり来る
(「淡路にて」)


「十人」は青木繁《海の幸》の中の裸の漁夫たちの数と一致する。情報伝達の速度が現在とは比べものにならないほど、のんびりしていた明治という時代においても、言語芸術と視覚芸術とが驚くべき速度と熱意とをもって互いに共振し得た幸福な関係を築いていたということがよく判る。


さて、その《海の幸》であるが、画の中では、紅一点、女性が描かれており、一人だけそのまなざしをこちらに向けている(画面の右から四番目)。画の解説によると、モデルは当時の青木繁の恋人だった福田たねだと言われており、その視線が何となくずっと心に引っかかっていたのを、この前観た、国立新美術館の【オルセー美術館展2010「ポスト印象派」】で、モーリス・ドニセザンヌ礼賛》(1900〜1901年頃)という画を前に立った時に、直感的にぴんと来たのは、「やや、これは青木繁《海の幸》みたいではないか?」ということであった。


まあ、たぶん普段だったら特に気にも留めずに画の前を素通りしていたと思うのだけれども、ちょうど『伊良子清白』や折口信夫(そういえば、村井紀『反折口信夫論』の表紙画も青木繁の《黄泉比良坂》であった)を復習として読み進めていた頃であったので、自然と青木繁の名前が思い浮かんだのだった。モーリス・ドニという人は正直に言うとそれほどの画家ではないかなあと思うし、今までナビ派のひとりという思いしかなかった――同じナビ派だったら、わたしは断然ピエール・ボナールの方が好き――のだけれども、おもしろいことに、ルドンやボナール、ゴーギャン、ヴュイヤールなどが描かれた中で、画面の右端に一人だけこちらに視線を向けた女性が描かれており、キャプションによると、それがドニの奥さんのマルトをモデルにしているということであった。そして、この作品に描かれている人物を数えると、何と「十人」であったのだった.....!


いや、とは言え、モティーフも場所もまったく違うし、描かれている人物が「十人」と数が合致するということと、ただ一人視線をこちらに向けている人物が唯一の女性であり、画家の恋人や奥さんである、という一致しか見出せないのだけれども。それでも、ドニがこの画を描いた制作年(1900年〜1901年)からすると、1904年に画を完成させた青木繁がおそらく図版か何かで西洋画の最新の動向として、ドニの《セザンヌ礼賛》を観ており、それをヒントに《海の幸》を制作したという可能性もなきにしもあらず、と思うのだけれども、どうであろうか......?うーん、いつもの強弁にしてお得意の思い込みなのかなあ、気になります。