しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

[murmur]


遊覧日記


散歩日和の土曜日、目白駅からバスに乗って講談社野間記念館にて「講談社の「出版文化資料」展」を観る。1925年に創刊されて爆発的な人気を呼んだ『キング』の表紙をしみじみ眺めながら「これがあの美しいプラトン社の雑誌『女性』や『苦楽』を廃刊に追い込んだ雑誌なのか」と思う。『キング』の表紙は藤島武二が手がけているものもあったが、藤島武二の画にしては冴えない感じがするし、ぐるっと一周見渡して思うことは、やはり講談社は美的センスに関してはずいぶんとやぼったいなあという印象。確か佐藤春夫だったと思うけれど、『新青年』誌上で、ある作品を差して「こんなものは『キング』か『講談倶楽部』にでも載せておけばいい」みたいな趣旨のことを言っていたなあと思い出す。つまり、その手の雑誌を出していたのが当時の講談社だったという訳だ。



その中で面白かったのは『少年倶楽部』の付録の模型の組み立て方を何とも煽動的に説明したチャーミングな文章と『婦人倶楽部』に掲載された山川秀峰の描いた《九条武子夫人》。今回は展示されていなかった所蔵作品の中で、その山川秀峰が三人の和服姿の女性たちを描いた《蛍》が素晴らしくて、この画を観るだけのために再訪してもいいかな、と思った。



その後、目白坂をずんずん下って印刷博物館にて「ミリオンセラー誕生へ! 明治・大正の雑誌メディア」を観る。これは、雑誌が主にインテリ層を読者としていた明治時代から大衆文化を担う主要なメディアのひとつとして確立された大正時代末期、昭和初期にかけての雑誌を巡る状況が一望できる素晴らしい展示でかなり見応えがあった。『中央公論』の前誌は宗教雑誌の『反省会雑誌』で表紙に「禁酒」の文字(!)が踊っていたり、1924年にアトリエ社が創刊した美術雑誌『アトリエ』の北原義雄は白秋の弟で、兄は美術出版アルスの社長・北原鉄雄で、弟はカメラ雑誌を出していた玄光社の北原正雄という、出版一家だった、など、いちいち面白い。それと、個人的には、1929年に博文館が『キング』の成功に続けと発刊した(が、あまり上手く行かなかった)『朝日』という雑誌に掲載された菊池寛の戯曲は、何と英パンこと岡田時彦が日活から松竹蒲田へ移籍するあいだに出演していた松竹レヴュー「地獄のドンファン」であった!ということが判明してよかった。このあたりの話は、『新青年』で横溝正史渡辺温との鼎談「ABC漫談」でも語られているし、『映画時代』でも岡田時彦自身が書いているのでちょっと気になっていたのだった。それと、『女性』の見目麗しい山六郎画の表紙がまとめて飾られているのもうっとり(おお、この何と『キング』と違い美しい雑誌であることか!)だったし、これで『新青年』についてもう少し詳しい展示があれば完璧だったのになあ、と極私的趣味からそう思う。莫大な宣伝費用とかけた大衆誌『キング』のおかげで潰れた美しいプラトン社の雑誌『女性』と『苦楽』の辿った道は、そのまま、改造社の円本(でも文学全集の装丁は杉浦非水であった)ブームのおかげで立ち行かなくなったボン書店の辿った道を想起させる。美しいものはいつの時代でも儚い。



それにしても、大正末期の文芸誌の目次を見ると、そのほとんどと言っていいほどに、長谷川海太郎谷譲次牧逸馬の名があり、本当に書いて書いて書きまくっていたんだなあと思う。