しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

祖母の家

まゆみの生垣で覆われた庭をとおって、玄関の引き戸をがらがらと開ける。その木造の小さな家は、障がいをもつ娘と二人で暮らす親戚のおばさんの家と接していて、猫の額くらいの湿った庭しかなかった。日中でもあまり陽の光りの差さない暗い居間、奥に置かれていたブラウン管の小さなテレビではいつも絞ったヴォリュームで相撲中継がかかっていた記憶がある。隆の里の地味なまわしの色とのっぺりした餅のように白い肌。顔立ちも目が細くて地味だった。物心ついてからはじめて名前をしっかり記憶した力士だったが、なんとなく幸が薄いというのか、大きな背中に悲しみを背負ったようなお相撲さんだな、と子どもごころに思っていた。なぜか、祖母の家の思い出は、安岡章太郎『海辺の光景』とセットになっている。クリーム色の表紙の新潮文庫。といっても『海辺の光景』がどんな小説だったのか今はもう思い出せない。

海への散歩の帰り道、駅前の商店街に立ち寄って、祖父は高価な(と、子どもはその時思った)バービー人形を買ってくれた。桃色のフリルやレースが施された舞踏会で着るようなドレスを身につけたゴム人形。日本製の背の低いリカちゃん人形とは違い、黒目がちの輝く大きな瞳をしたバービーは、スタイルが良く背もすらりとしていて足が長かった。舶来の香りがした。おしゃれで清潔だった祖父。白いピケ帽子をかむり、白のキュロットパンツ、ハイソックスも白だった。生粋のハマっ子で啖呵を切るようなべらんめえ口調があざやかだった。ワインレッド色の車に乗っていた。大人になって、小津安二郎の映画を観るようになってから、そういえば、喋り方やおしゃれなところが祖父にちょっと似ているな、と思った。逗子鎌倉の香りもあったかもしれない。

夏休みに遊びに行くときまって冷蔵庫から出してくれる、祖母のつくるすいかのジュースは水っぽくて不味かった。祖母はあまり料理が上手ではなかったように思う。それでも孫が遊びに来ると、ホタテ貝のフライをよくつくってくれて、それだけはおいしかった。正月に煮る黒豆にはかならず真っ赤なチョロギが入っていた。後年、澁澤龍彦のエッセイにチョロギがでてくるのを読んだときは、祖母の黒豆を思い出したものだ。本ばかり読んでいる文学少女だったから、祖父と結婚した当初、お姑さんに「本ばかり読んで」と小言を言われたけれど、祖母の母親は「本ぐらい自由に読ませてやったって、いいではないですか」と言い返したそうだ。

居間の大きな机には、テーブルクロスの上にさらに分厚い合成ビニールのカバーがかかっていた。夏など汗ばんだ裸の腕にそのビニールがぴったりはりついて、あまり気分のよいものではなかった。ところどころ、台布巾で拭いてもとれない、経年のしみのようなものがついていた。便所はまだ汲み取り式で、暗い穴をのぞくと落ちそうでなんとも怖かった。誰かが下から足をひっぱるのではないかと恐れおののいた。狭くて暗い鳶色の階段をみしみしと鳴らしながら登ると、二階には祖母の小さな文机が置かれていた。壁には祖母の詠んだ短歌が飾ってあり、エリカという花をはじめて知った。エリカ、リラ、よく知らないけれど美しい花の名。幼いものにとって、家に遊びにゆくたびにそれらの歌を眺めることは無意識のうちに文学への淡い憧れを掻き立てた。それにまだ、昔の鎌倉の小町通りはあんなに混雑していなかった。祖母とふたりでぶらぶらと通りを散策して、駅にほど近いガラス細工の店で群青色のガラス玉を買ってもらった。日にかざすと虹のプリズムをつくるのを飽かず眺めた。ニュージャーマンのカスタード・クリームの入ったお菓子。それから、八幡様のちかくのお好み焼き屋。祖母は会うといつもじぶんが少女だった頃の「少女の友」の話をしてくれた。何度も同じ話をした。クラスの友達がみんな持っていた「少女の友」を読みたくて読みたくて、でも、家では講談社の「少女クラブ」を買い与えられて、わたしが読みたいのは「少女の友」のほうなのに、と。