しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

この一年


それにしても、何という年になったのだろう。


二月の終わりに、母方の祖父が亡くなった。生粋のハマっ子で、威勢の良いべらんめえ口調は、子どもごころにも「おじいちゃん、かっこいいなあ」とわくわくするものとして届いていた。いつもこざっぱりとした白い帽子をかむり背筋のしゃんと伸びたお洒落な祖父だった。祖母とは違い文学なんぞは読まなかったが、字を書くことと辞書に首っ引きになることが何よりも好きで、年賀状は毎年11月頃から筆で一日一通ずつしたためて皆に送っていた。ひと文字、ひと文字に神経の行き届いた惚れ惚れするような達筆だった。祖父が遺した十数冊の日記と、おもに家族と戦争のことを綴ったクロニクルさながらの分厚い原稿は、いつかきちんと目をとおしたいと思っている。祖父を失った悲しみにくれるまもなく、それから四日後に今度は実家のタラが死んでしまった。臆病で甘えん坊で黄金色の瞳をした黒猫で、ふざけて尻尾をぎゅっと握ったりすると大袈裟すぎるほどの声でぎゃんと啼いた。三匹いた猫のうちの最後の一匹だった。


三月の震災のあとは、暫くのあいだまったく本を読めなくなった。読書という行為をするには、あまりにおびただしい雑念が脳裏に浮かんでは消え、また浮かんだ。これらを雑念という名で片づけてしまってよいものなのかどうかは今もわからないけれど。言葉がはがねの楯にでも遮られているかのごとく跳ね返り、てんで入ってこなくなった。ああ、こんな時に猫がいたら、日なたでふかふかになった獣くさい猫の毛並を撫でたい、タラちゃんはもういないのだなあ。ぼんやりとそんなことばかりを思い日々をやり過ごしていた。最初に受け入れることができたのは意外なことに音楽であった。あんなに長いあいだ音楽から離れていたというのに。それから絵画。好きな画集を眺めている時間のそこだけは、どこか心が穏やかになるのを感じた。モランディの静物、コーネルのコラージュ、ドナルド・エヴァンズの描いた架空の切手を飽かずいつまでも眺めた。近代美術館に観に行った長谷川利行の画にも勇気づけられた。心がざわついていたのだろう、活字はほんとうに暫く駄目だった。震災後二ヶ月は用事のない日は家に籠り、白秋の詩歌と賢治の童話だけをひねもす読んで暮した。不思議なことに、これらの言葉だけは例外的に受けつけるものだった。じっさい、それらは何と温かな響きとひそやかで瑞々しい感性にみちていたことだろう。それから少し経つと、カフカ全集のうち日記と手紙の巻を図書館から借り出してきては読むということをした。とりわけカフカの日記には、孤独な友人を見つけた気がして心に灯が点るようだった。


初夏になって調べものを再開したこともあり、ようやく本の言葉が少しは入ってくるようになった。そんな折に読んだ橋口幸子『珈琲とエクレアと詩人 スケッチ・北村太郎』(港の人)は、著者がじっさいに接した「良き隣人」としての北村太郎をやさしい眼差しで見つめた本で、神経の疲れによる弱った心にじんと沁みた。白くて多めの余白があり、かつ薄くて軽いという本の佇まいもまたよかった。いったい、この本を読んで、北村太郎を好きにならない人なんているのか知ら。これをきっかけに夏の終わりまで彼の本を机上に積み上げてはずいぶんとじっくり読みふけった。今まであまりきちんと読んでこなかった北村太郎を真剣に読む機会が与えられたのは、今年の読書のひとつのトピックだったと思う。震災を経てあらためて読む北村太郎の飄々とした佇まいと深い虚無を抱えた詩篇は――少なくとも、わたしにとっては――震災後俄に興った一部の現代詩人たちの表現と方法に比べてずっとリアルであり、すうっと心の奥のほうに沁みいってくるのだった。そもそも、言語芸術としての詩とその結晶度という点でまったく異なっているように見える。わたしは、北村太郎のぽっかりあいた虚無の闇に射す微光と甘美な倦怠の雨のほうにしっくり心が寄り添う感じがした。なぜかは判る部分と判らない部分の両方があるけれど。北村太郎も祖父と同じくハマっ子だったから、というのもあるのかな。それからというもの、「死者の棲む大いなる境に近づきつつある」彼の遺した詩篇をいつも心に抱えつづけている。命日の10月26日を選んで、白と群青色の花をたずさえ、お墓にお礼に行けたこともよかった。墓碑がなかなか見つけられなくて困ったけれど。


夏休み中はせっせと国会図書館に通って、ある一人のとうに忘れられた詩人のことを調べていた。何となく漠然と好きだなあと思っていた人を徹底して調べるということをはじめてしたのだった。三田四国町生まれの彼は、少しばかりの詩篇を遺して一冊の個人詩集も出すことなく先の戦争で亡くなった人だけれど、そういった埋もれてしまったままの人々を、ふたたび光のあたる場所に引き上げてみたいという、へんに使命感の漲ったオブセッションめいた心のありようが、わたしに長い長い文章を書かせたといってよいと思う。まあ、それはいつものことなのだけれども。


それからご縁があり、とある敬愛する詩人の方のトークにおける司会という大役(?)を仰せつかる展開になったのは、我ながら不思議な巡りあわせであった。いやはや、こちらはたんなる一読者にすぎないというのに。そんな大胆な人選をしたYさんには驚きを禁じえないけれど。そして、その場に来ていたAさん...というか秋葉さんと知り会って、数ヶ月後にさらなる別のイべントをかたちにすることができたのは、まさにこれは面白いことになった!というのがぴったりで、何とも高揚すべき出来事だった。正確に言うと家人の企画だったために、わたしも一通り準備からかかわることができたのだけれども、西荻ブックマーク《小沢書店をめぐって:長谷川郁夫×秋葉直哉》における、たぶん今回限りの息を凝らすような濃密な二時間はほんとうに得難いものだったと、今、これを書いていてしみじみそう思う。


また、秋の京都の地では、これまた別の愛読している作家に思いがけず遭遇するということがあり、嬉しさに舞い上がってしまって、止せばいいのに要らぬことを喋ってしまって自己嫌悪に陥る、というのもあった。ああ、あんなふうに礼儀を失したやり方で話し掛けてはいけない方なのに。なんともとほほな思い出ですが...。活版をつかった美しい印刷物に魅せられて、去年からファンになったヒロイヨミ社の山元伸子さんとご一緒する時間もあって、それもまた嬉しくたのしかった。それから、真治彩さんの個人誌『ぽかん』のことは、すでに別に書いているので繰り返しになるけれど、色んな意味でありがたく嬉しい機会となった。


2011年という年は、ほんとうに酷いことや悲しいことばかりが、わたしたちを襲ったような気がしていたのだけれど、こうして書き出してみると、それと同じくらい愉しみや良きこともあったのだなと気づく。不確定な執行日までのたかだか多く見積もっても数十年?の仮住まいの身に過ぎないのだから、そのあいだはよく在りたいという希求と、もう取りかえしがつかないことが起こってしまったという現実のはざまで、まあ、そうは言っても虚無を抱えたまま死ぬまで生きるか、というのが今の気分だけれど、幾度もしてきたように空と星に向かって手を合わせて、ふたたび、ローベルト・ヴァルザーの『助手』よりトープラー夫人の言葉を引いておきたい「きっとうまく行きますよ、そう期待して願っています」。これは、希求です。