しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


最高に粋な粋な映画:エルンスト・ルビッチ『天国は待ってくれる』



エルンスト・ルビッチの遺作とも言うべき晩年の作品『天国は待ってくれる』(1943年)を観る、素晴らしかった!あいにくスクリーンでという訳ではなく、家の小さなブラウン管を通して観たのだけれど、最後には立ち上がって拍手をしたいほどの作品で、まあルビッチはいつも凄いのだけれど、改めて惚れ直した。何処が素晴らしいって、まずは当たり前のようにカメラが凄い、編集と演出が凄い、脚本が凄い、俳優も凄いという全編にわたって一瞬の隙もない、非の打ちどころのない出来で「これぞ映画!」と小さく叫びたいくらいなのだ。


どう見てもミュージカルの舞台か何かにしか見えない赤い絨毯の敷かれた階段のセットは実は地獄の入り口で、そこで話をしているのは、つい先ほど死んだばかりのヘンリー・ヴァン・クリーヴ(ドン・アメチー)なるいかにも上流階級の老紳士と、立派な口髭を生やした背の高い大柄な男性が閻魔大王で、死んだばかりの老紳士が地獄の入り口で閻魔大王に語り聞かせるのは、生まれ落ちてから死ぬまでー母親からはじまって彼の死を看取った若いブロンドの看護士に至るまでの華麗なる女性遍歴を持つさながら「好色一代記」とも言うべき品行方正とは程遠い一生で、そのために自分はたぶん地獄行きを免れないだろう、と言うのであるが、地獄の番人はそんな彼に意外な言葉をかける.......。


という設定からして、流石にサイレント時代から人を喰ったような演出で観る者を驚嘆させてきたルビッチのやり方で、思わず頬が緩むのだけれども、この作品はルビッチの超一流艶笑劇作家としての集大成だとも思えたし、映画の中で『メリィ・ウィドウ』にオマージュを捧げているというのも、何だか今までのフィルモグラフィーを総括しているような感じがして、傑作という他ないこの作品がルビッチ最晩年のものだということ思えば、その事実だけで危うく涙ぐみそうになってしまう。


まずは、テクニカラーで撮られたジーン・ティアニーが衣装を含めて素晴らしく美しい。ドン・アメチーとはじめて会った日の娘時代の彼女の衣装、そのウェストを絞ったヴァイオレット色のドレスに、可愛らしい菫の花をあしらったお揃いの帽子の何という愛らしさ!女のわたしでもこんなに愛らしい女性に街角で出逢ったなら一目惚れしてしまうだろう。そうだよなあ、こういう美しい色を撮るためにテクニカラーが使われたんだなあ、としみじみそう思う。


それから、主人公の唯一の味方である祖父役のチャールズ・コバーンがこれまたニクイほどに素晴らしい。茶目っ気があって、粋で、ユーモアのセンスに溢れている。彼の吐く台詞がいちいち粋なので、ただもう見ていて嬉しくなってしまう。こういうチャーミングな傍役が出てくる映画は無条件で好きだ。


いとこの婚約者ジーン・ティアニーをそのお披露目の席で抱きかかえて強奪してしまったドンファンドン・アメチーの行為に、婚約パーティに居合わせた人々は何故かそれを当然のように受け入れ、婚約者に去られてまるでコキュ同然のアルバート(アリン・ジョスリン)はショックも見せずに健気にも事態の収拾を図ろうとなだめ役にまわる。生真面目なアリン・ジョスリンの堅物ぶりが滑稽で可笑しいが、なんだか少し気の毒にも思える。こういう大胆なことを抜け抜けとやってのけ、素知らぬ顔で口笛なんぞ吹いている、ここでもルビッチの人を喰ったような演出が素晴らしい。


それと、もうひとつ好きなシーンがある。ドン・アメチーの浮気についに置き手紙を残してカンザスの実家に帰ってしまう(彼女はカンザスの裕福な牧場主の一人娘なのだ、実家のインテリアの悪趣味としか言い様がない成金ぶりもこれまた素晴らしく可笑しいのだけれど)ジーン・ティアニーなのだが、そのシーンのプレリュードとして彼女の実家での父と母の日曜日の朝食のシーンがもう抱腹絶倒の可笑しさでひたすらにブラボー!としか言い様がない。二人の冷えきった仲を象徴するかのように長い長いダイニングテーブルの端と端に二人は坐り、そのあいだを黒人の召使い(彼もまたチャーミング)があたふたと行ったり来たりするのが、まさにスラップスティック・コメディの様相を呈している。それに続くシーンで、ドン・アメチーが祖父のチャールズ・コバーンと連れ立って彼女を取り戻すべく実家に急行するのだが、窓の外のその二人の口パクと豊かな表情を部屋の中のカメラが追う一連のシーンが何とも素晴らしくて、やはりこれはサイレントから撮っている監督の作品なのだ、という独り言を感嘆のため息とともに呟きそうになる。


そして、最後の最後でルビッチはホロリと泣かせるシーンまで用意していてくれた。もともと、わたしはジャン・ルノワールジョン・フォード小津安二郎マキノ雅弘など笑えて泣ける映画が一番好きなのだけれど、これでもう完全にツボに来た。ルビッチが最後に描いてくれた生と死と愛=人生の尊さ、それをあくまで一貫して己がスタイルであるところのルビッチ・タッチで描いてくれたというその徹底振りを目の当たりにして、もはやルビッチ・タッチとは職業倫理の域にまで達しているのだ、とか何とか、また大袈裟なことを言ってみたい衝動にかられてしまう。


あと、蛇足だけれども、はっとしたことをひとつ。冒頭の映画のクレジットが愛らしい刺繍をあしらった布でもって映し出されてゆくのだけれども、その布の色が生成りで、アルファベットの文字の最初の一文字が赤い糸で施され、残りの部分が黒っぽい(というより紺色か?)糸で施されている(画像参照)のである。はて、これは何処かで?そうだ、小津安二郎のカラー作品のクレジット(ベージュの麻布に赤と黒)に酷似しているではないか!と思ってこの発見(?)に一人で大興奮してしまった。この作品は長らく日本未公開だったし、復員後の小津が1943年のこの作品を観ていたということはあり得ないとは思うけれど、ルビッチを敬愛して止まなかった小津のカラー作品のクレジットが偶然にもルビッチのそれと似ていたという事実に「おお!」となる。