しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

瀧口セラヴィ農園のオリーヴ

一九六〇年代の終りころから瀧口さんはこの庭のオリーヴの実を舞踏家の石井満隆らの協力で採取して、ピクルスを作ることを試みられた。わざわざビンを買って来られ、ラベルも印刷して、その成果は毎年幾人かの親しい友人たちに配られた。ラベルには「東京都産 オリーヴの実 丹精栽培西落合 瀧口セラヴィ農園」などと印刷されているのだった。[...] 「瀧口セラヴィ農園」のセラヴィとは、マルセル・デュシャンから瀧口さんのこれは実現しなかったオブジェの店の名前として贈られた「ローズ・セラヴィ」に由来していると思われる。ある年などはビンとは別にオリーヴの効能書まで印刷されてつけられるほどの熱心さであった。

  舌 代
 おりいぶの栽培は三千年の古に遡ると云われ、その枝はノアの方舟より放てる鳩のくはへ戻りしという聖書の故事に依りて平和の微とはなれり。果実の恵みに至りてはげに幾千年の地中海文明の培養素たりしと言ふも過言には非ざるべし。我国に移植せられしは百年以前の文久年間にして漸く瀬戸内の岸辺に根をおろすに至れり。然るに如何なる奇縁にや怪煙の都東京は落合の里の一隅に花咲き実を結ぶ。園主驚き旦は喜び、数奇の友を誘ひ力を併せて粒々辛苦洗練にこれ勤め遂に本場産に優るとも劣らざる天然の風味に達し得たり。恨むらくは粒数に限りあれば選ばれし風雅の友と惜しみつつ味を頒たんとす。乞ふ平和とや言はむ一刻の味を試みられむことを。                 敬白
一九七一年師走

指南 石井満隆(小豆島生、舞踏家、在ロンドン)
連中 原田敬一郎、渡辺仁志(サルガッソ海少年)
池田龍雄、中西夏之、幸美奈子=在スペイン(共に画家)
瀧口修造、綾子(園主、その妻)


オリーヴ・ピクルスは瀧口さん独特の遊びでありあいさつであったわけだが、そこにはもっと集中された「手づくり」の精神が込められていたような気がしてならない。[...] 路地を曲るといまは書斎の屋根より大きくなったオリーヴの樹が見え、梢にはたわわにその果実が実って秋の日に光って見えた。ぼくはその光景を見て何か不思議に心の安まるのを覚えた。オリーヴの実は瀧口さんのかぎりないやさしさの象徴でもあったのである。

(鶴岡善久「オリーヴ・マルジナリア」・『暦象』第92集/1979年)

灰緑色のひらべったい葉を繁らせて黄金色の光にそよぐそのオリーヴの樹も、瀧口修造の住んでいた西落合の家も、今はもうない。