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しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


高祖保を読むと雪がふる


昨日から今日にかけて、小躍りするよな嬉しいできごとがあったのだけれど、ここにそれを書いてしまうと小鳥が羽根をひろげて逃げて行ってしまうような気がするので、書かないこととした。



今日の昼休みは書庫に籠って、佐々木靖章氏による「高祖保著作年譜稿」「高祖保主宰『門』の目次と解題」を『文献探索』のバックナンバーからコピーするなどしていた。


高祖保の作品に「花の季節」と題された掌編(初出は『文芸汎論』10巻4号/1940年)がある。この作品は、わたしが今まで読むことのできた高祖保の少なからぬ作品のなかでも特に気に入っている一篇なのだけれども、タイトル「花の季節」の脇に献詞としてやや小さなフォントで付されている言葉が「この掌編を井上多喜三郎様にさしあげる」というもので、この一文を読んで、わたしはもう本文に入る前からこの詩人にすっかり魅せられてしまったのだといえる。今まで色々な文学作品というものを一応それなりには読んできて、「〜に捧ぐ」「〜に捧げる」もしくは「〜へ」「〜に」*1「〜のために」という類いの例は見たことがあったけれど、「〜様にさしあげる」という献詞ははじめて見た。この「井上多喜三郎様にさしあげる」という言葉そのものに、高祖保の詩魂の美しさが宿っているかのように思えた。


さて、この掌編はこんなふうにしてはじまる。


「草花舗の装飾窓は花の吐息で曇つてゐる。花にも思ふことがある。――街頭で草花舗の前をよぎるたびに、私はこの詩を思ひ出すのだ。」


はて、「この詩」はどこかで読んだことがあったかな?と思って、何となくの心当たりを探して詩集を繰ってみると、おお、何と我が偏愛の海港の詩人、竹中郁詩集『象牙海岸』(1932年、第一書房)に収められた詩篇「孤独の紀念(抄)」からの引用であったのを発見して一人喜んでいる雪もよいの宵。



海燕と年
元朝のフレスコ風の雪のなかから、鵲のやうに雪を
かついできた郵便配達夫は、わたしに「おめでたう」
といつた。かれはわたしの掌に、書翰の一束を落とし
てすぎる。晩香波にゐるF・Fの賀状には《リネンの
月》という詩が印刷してある。その詩は剽窃だ。そし
て星に肖た海燕がひとつ。海燕マン・レイ氏のシネ
ポエムから、写しとつたのであるらしい。海燕は音楽
のやうに唄ふ。

*1:例えば、堀辰雄が神戸に遊んだ日を描いた短篇「旅の繪」には、冒頭で「竹中郁に」と献辞が付されている。