しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

美術と詩


多摩美術大学主宰の連続講座第29回「美術と詩―ライン、ストローク、想像力、物質」(講師:平出隆)を聴講するため、上野毛キャンパスへゆく。


詩における「ライン=行」と美術における筆はこび「ストローク」。行為のあり方として両者はよく似ているのではないか?という話から、詩のとなりに絵を描くことはごく自然な営みだろうし、小説家より詩人のほうが美術に近しくなるような気がする、とも。詩画集か.....そんな話を聴きながらぼんやりと思い出すのはガラスケース越しに見た、安東次男『からんどりえ』(銅版画:駒井哲郎、書肆ユリイカ、1960年)。


わたしたちが「作品」として受け止めているものは「行為」がもたらしたもので、普通の生活の上に成り立っており、紙と筆との出逢いは誰にでも可能なものなのだとする話を聴きながら、そのことが平出隆が一貫して言い続けている「ポエジーが宿る場所は詩だけではない」という言葉に結ばれているのが判って心動かされた。


偶然、詩のかたちをとったもの。或いはまた、散文のかたちをとったもの。紙の上に走る筆の一捌き。ポエジーとは、もしかすると本を離れて森の中にだって存在するかもしれない。抽出された形象としての「作品」は自然の営みとしての「行為」の延長としてあるもので、出来上がったものを覗いてみたら、それが詩というかたちをしていた、というような感じなのかなと漠然と思う。まずジャンル先にありきでそこに当て嵌めて考えるものではないのだし、そういう考え方が、本来は自由であるべき精神を不自由なものにするのかも知れない.....なんていうことをつらつらと思ったりする。


ドナルド・エヴァンズが長い時間をかけて切手の創作を自らの表現手法として選び採り、そのスタイルを生涯変えることなく続けたことと、決定的なかたちとして持続可能な方法を60年代から反復する試みを続けている河原温はもちろん彼の中では繋がっている。


以前、『遊歩のグラフィスム』を読んでいて、そこに図説されている正岡子規のカリグラムの手法がアポリネール北園克衛の「図形説」も経由してジョゼフ・コーネルの"Crystal Cage"に行き着くというふうに愉しく夢想してみたことがあるけれど(いや、行き着くというのはじっさい正しくないかもしれない)、子規とドナルド・エヴァンズと河原温を同じ場所において語ることのできるのはおそらく彼しかいない。


エヴァンズは、自己表現としての「作品」である切手を描く中に架空の国を作り上げて、そこにまるで本物の国のように制度や社会をつくったのです、と彼は言う。他者によって定められた制度――郵便システムを司る国家制度――が作品世界に取り入れられることで、当然そこにさまざまな交通が生まれるということになるだろう。


「作品」を純粋な芸術として(周囲の雑音を遮断したうえで)提示するのではなく、あえて制度の枠に投げ入れることで、不可避的に「よそ」の声をそこに吹き込むこと。そのことで「作品」は重層的な響きとかたちを帯びたものになる。そこでは衝突の火花が散るかもしれないし、掻き混ぜることによって新たに顕われてくる混沌としたかたち、そのスリリングな営みをまるごと俊敏な動きで捕まえて結晶化させること.....。混沌という文字を入力しながら、わたしの頭の中がすでに混沌として(おお....!)上手くまとまらなくなってきたので小休止。


平出隆の手掛けるvia wwalnutsが素晴らしい試みだと思うのは、美しい形象=器への言葉の置かれ方に繊細な神経が行き届いているということはもちろん、今やすべてを飲み込もうとしている巨大電子書店を通じて購入できるという通路を開放していることだ。小さい声や親密さを想うことの好きなわたしのような古いタイプの本好きは、著者から直接購入すればよいし、便利ということに重きを置く人ならば、amazon経由で求めればよいだけなのだから。


プライヴェート・プレスだからといって、いわゆる愛書家を対象とした限定本のように書物との出逢い方の幅を狭めることのないありようがとても新鮮で、おそらく綿密な計算のもとに数学的方法として彼が選び採ったのがこの初版40部のvia wwalnutsであったのだと思う。


「紙の上に文字を置いてみて、わくわくするかどうかが重要なのです」と彼は言う。美術=形象と詩=言語は繋がっていて、筆という筆記用具を遣うことで絵と文字の境目があまりないようにして書かれた(描かれた)子規の『仰臥漫録』と美術と詩の混交をはかったダダやシュルレアリストたちの雑誌は地下で繋がっているのか.....。


「言語は意味だけで成り立っているのではなく、意味の割合を小さくしていくとオブジェクティヴ(物質的)な存在になる。本当に凄い文学作品は視覚的要素や言葉の響きなども含めオブジェに近付いてゆくし、オブジェクティヴな状態が詩を呼び起こしているとも言えるのです。」


なるほど、確かに著者からの手紙のようにして届くvia wwalnutsの出版物は、そこに貼られた百舌の切手やその上に鋭く走る消印、配達日の天候に左右されてやや湿り気を帯びてへたったような状態で届くこと、さらには宛名の位置がばらばらだったり、著者のサインの文字"th"の色が毎回違っていたりと、ひとつとして同じものがない極めて偶然性に満ちたスリリングでオブジェクティヴな書物と言えるだろう。


via wwalnutsという極小出版の試みは、平出隆の「作品」であり、また同時に「行為」でもあるのだなと、その歩行の確かさをじっさいの言葉からじかに感じ取ることができたことは、読者にとっては愉しく嬉しい時間であった。