しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


休み時間にせっせと伊達得夫に関する文章を集めている。

 真理ちゃんと百合ちゃんのお父さんの仕事はふしぎな商売でした。


 詩集や詩論の本は少ししか売れず、ふつう、それは商売にはなりません。他の本を出している本屋さんとか、印刷屋をしている閑な人が、詩の本を出すことはありますが、それだけを商売にして長いことやった人は、たぶん伊達得夫のほかには一人もいないかもしれません。


 昔、戦争の前、文学をやろうと思っている若い人たちの間には、「苦節十年」という言葉がありました。どんなに苦しくても、十年間文学に精を出せば、一人前になるだろうということです。


 今、ぼくたちは、その言葉をうらやましいものに思います。と言うのは、会社に勤めたりして働かなくても、ごはんにおしょうゆをかけたりして、原稿を書くことだけに熱中できたからです。それは、そのときの世の中の仕組みが許したことで、今はそんな真似はとてもできません。一日働かなければ、一日食べられないのです。そこで、詩人たちは皆何かの職業をもっています。


 学校の先生をしたり、弁護士をしたり、会社につとめたり、新聞記者をしたり、翻訳をしたり。あるいは他の商売をしたりして、食べるための収入はそちらの方から得ています。昔のように、ルンペンのような生活をしながら詩を書いて行くことはできないのです。これは、いいことなのか、わるいことなのか。それはわかりません。問題のたて方がまちがっているでしょう。


 しかし、次のことは確かなのです。伊達得夫のような人がいて、詩の本を商売とすることに生活を賭けたということです。昔の詩人志望の青年のように、詩だけに夢中になることができたのです。


 つまり、今の若い人たちが、詩を書くことと生活の不安を結びつけていないのに、伊達得夫は詩の本と生活の不安を結びつけたということです。


 ぼくたちは、このことについて、伊達得夫に恥ずかしく思います。しかし、そのために、いつまでも伊達得夫のことを忘れず、その思い出を愛するでしょう。書くことはいくらでもありますが、これは欠いてはならない一つのことだと思います。


 真理ちゃんと百合ちゃんが大きくなり、生活というものの意味がわかるようになれば、お父さんの仕事のこの世の中でかけがえのなかった見事さがわかることと思います。


 このような生活の苦しさ楽しさから見るとき、伊達得夫は多くの若い詩人たちの誰よりも詩人だったのです。


清岡卓行「詩の本の商売」(季刊『銀花』1999年夏/第百十八号)

 彼の死はまったく、われわれ親しかったものにはどこか信じられない、何ものかにだまされたようなところがあった。田村隆一はある晩、戸をドンドンたたく音に起されて戸口まで行くと、戸外の男ははっきりと「伊達です」と言ったそうだ。


 彼が死んで二、三年後のこと、ぼくは渋谷から新宿に向かうバスに乗っていて、どう見ても伊達得夫にちがいないと思える男を見た。ぼくは最後部に乗っており、長身・長髪のその男は前のほうに乗っていた。よほど側に行ってみようかと思いあぐねているところで、バスは止まりその男はからだを折るようにして下りていった。ユリーカという文字は、こうしたことを次々に思い出させる。


飯島耕一「僕の"ユリーカ"」(福岡市文学館「余は発見せり〜伊達得夫と旧制福高の文学山脈〜」図録)