しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

祖母の家

  家の鏡台には、資生堂ドルックスのクリームや乳液やらがところせましと並んでいた。鼻を掠めるそれらの入り混じった重い粘性の匂い。山名文夫の曲線が優美な唐草模様の意匠は、だから幼いころからなじみがあった。父方の祖母はおしゃれだった。色彩感覚にすぐれていて、じぶんに似合う色を知っていた。白髪になってからは、よく薄紫やエメラルド・グリーンのニットを着ていて、とてもよく似合っていた。洋服や化粧品、買い物、美食つまり贅沢を好み、池袋の東武百貨店を根城にして開店から閉店までそこにいた。池袋の東武というのは、住んでいたのが西武池袋沿線の学園都市の駅だったことと、北関東出身の人だったから東武という路線になじみがあったのだと思う。母によると、百貨店でその日出会った人とお茶を飲んだりして、日がなウィンドーショッピングをしていたそうだ。

  宇都宮の郊外のお金持ちの末っ子として、庭にカナリアのいる鳥籠をかけているようなモダンな家に住み、乳母に「お嬢様」と甘やかされてわがままいっぱいに育った。幼いころ、片岡千恵蔵の前で踊りを披露したことをずっと自慢と誇りにしていた。子どもには「チエゾウ」がどんな人なのかはよくわからなかったが、それはそれは綺麗だったのよ、とよく聞かされた。後年、旧い日本映画をよく観るようになってから、千恵蔵が祖母の言うとおり「それはそれは綺麗」な人だということを知った。整理整頓ということがいっさいできない人で、百貨店で山のように洋服や着物を買うだけ買って満足して、それらを二階のタンスの引き出しや茶箱に滅茶苦茶に仕舞っていた。まるで泥棒が入ったような光景だった。

  長男だった父のことはたいへんに贔屓して可愛がり、次男のおじさんにはあまり目をかけなかった。おじさんは、すっとんきょうな声で、いつもおかしなことばかり喋るお調子もので、斜に構えてひねこびた子どものようなところがある人だったが、ながい睫毛の下で黒目がちの瞳がいつもきらきらと輝いていて、純粋な魂を持っていた。若い頃は都の西北に通う演劇青年だった。屋根裏の小部屋には、おじさんの蔵書だったとおぼしき、イプセン『人形の家』の文庫本――新潮文庫だったか、岩波文庫だったか、頁は日に焼けて四隅に向かって白茶けており、薄茶の小さな無数のしみがその上を走っていた――がころがったままになっていた。子どもは祖母の家に行くと屋根裏の小部屋にじっとこもることを好んだから、まもなくそのびっしり活字の詰まったざらついた頁を繰ることになり、「ノラ」という名前に不思議な感覚をおぼえた。ノラ、だって。のら猫みたい、と子どもは思った。

  おじさんは若くして脳溢血で亡くなった。休日にひとりで散歩に出かけた先の喫茶店のトイレで倒れたのだ。鼻に管を入れられて植物状態でしばらく生かされたあとでおじさんが亡くなったとき、父は「おふくろのせいだ」とぽつりとつぶやいた。祖母は父の娘で初孫であるわたしをいちばんにかわいがったが、弟やおじさんの娘のいとこについては、わたしほどにはかわいがらなかった。それは子どもから見ても歴然とした差別的な態度だった。旅行先でお土産を買ってきてくれるのだが、わたしには「はい、これはMちゃんの」といって渡してくれたが、弟にはなかった。「Rくんにはいいのがなかったから」と祖母は平然と言い放った。そのときの弟の悲しそうな顔が忘れられないと母はいった。

 わがままいっぱいに育った祖母は、父が中学生のときに離婚をして、祖父と再婚した。祖父は最後までとらえどころのない人だったが、若い頃の写真を見ると、鼻筋がすっととおった上原謙そっくりの美貌だった。戦場でも戦線には立たず、給仕班のような立場で兵士の身のまわりの世話をしていたそうだ。美貌のせいでお稚児さんのように扱われていたのだろうか。うわべはやさしい祖父だったが、どういう人なのかは結局のところわからないままだった。最初の結婚で授かった子どもを5歳で亡くし、心の闇を抱えたまま余生を過ごしているようにも見えたが、生前は何もそのことについて語らなかった。5歳の子どもの墓、というのは、どのような大きさなのだろうか、と子どもは思った。気の毒な人だった。各駅停車しか停まらない駅で、小さな米屋をいとなんでいたから、家にはいつもタケダのプラッシーキリンレモンの瓶が常備されていて、子どもはそれが嬉しかった。瓶のキリンレモンは缶とは違うおいしさだった。祖父は刺身に味の素をかけて食べるひとだった。いや、なんにでも味の素を振りかけて食べていた。いつのまにか食卓から消えた味の素。祖父は味の素信仰の人だった。