しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


見たことを忘れないうちに映画メモ。



この忙しいのに、そして体調もイマイチなのに、新文芸座に『限りなき前進』『人情紙風船』という豪華二本立てなので、これだけは、と、いそいそと観に行く。



小津安二郎が原作「愉しき哉保吉君」を書き(と、いうか野上照代さんのトークによると、小津の喋った内容を脚本の八木保太郎が口述筆記していた、とのこと)内田吐夢が監督したこの作品『限りなき前進』(日活多摩川、1937年)は、日本映画に興味を持ちはじめてからずーっと観たいと思っていた一本で、ようやく観ること叶った。だって、淀川長治さんの日本映画ベストワンですよ!まあ、戦後GHQにずたずたに切断されているのでその事実は腹立たしくはあるものの、そうはいっても、傑作の片鱗が至る所でみられる貴重な作品で、やはり観ることができてよかった。



ところどころ「うわ、いかにも小津安二郎だ!」と思わせるシーン(二人組の子供のセリフなどはほとんど『生まれてはみたけれど』や『お早よう』の世界そのものだし、小津映画お決まりのオフィスビルの屋上で背中を写しだしながら会話をさせる、など)と、でも映画全体を覆う暗くて重いトーンを克明に描き出すのはやはり内田吐夢のリアリズムだなあという感じで二人の対比がおもしろい、って内田吐夢の作品をそんなに観ていないのであんまりエラそうなこと言えないけど。



まずは、碧川道夫のキャメラが凄い。舗道を写すカットなんて構図がモダーン!足を画面のどの位置に入れるかまで緻密に考えて撮っているよう、ああ、これはまるで日本工房みたいだ!と思う。わんぱく少年二人組と轟夕起子、小杉勇の四人で行くピクニック、移動撮影というのかクレーンで撮っているのか空中から撮影しているのか素人なのでよく判らないけど、なだらかな丘を俯瞰するシーンなぞすごかった。これが戦前に作られた作品なの?という感じ。そういえば他にも、ファーストシーンの菜の花のアップから、引きでそれが菜の花畑ということが判って、そこに子供が落としたボールを見つけに来る一連のシーンと、小杉勇の家の玄関を写すのに花のあいだからカメラが段々寄って行くところとか、この時代の他の日本映画で観たことがないような斬新なカットが多くて「おお!これはすごい」と驚いたのだった。



森永製菓のタイアップ・シーン、轟夕起子のミルクチョコレートのアップにもにんまり。まあ、森永ミルクチョコレートといえば思い出すのは原節子の方だけれど。それに、丸の内の中央郵便局の時計が写るのもにんまり。白木屋(東急百貨店)の店内が写るのもにんまり。こういういかにもモダン都市東京好きの洒落たセンスはやはり小津安二郎だなあと思う。



この時代の轟夕起子はほんとに愛くるしい。二年後に撮られた久生十蘭原作の『キャラコさん』も観たいなあ。フィルムは残っていないのかなあ。それと、内田吐夢の映画に出て来る、紅沢葉子や江川宇礼雄を見ると、どうしてもやはり思い出してしまうのは英パンも居た大正活映で、英パンがもし生きていたらこの映画に出ていたかな、としみじみ思う。20年代には娘役で岡田時彦と共演していた瀧花久子も小杉勇と共に老け役をやっていて、これは1937年の映画なのだということをまざまざと思い知らされる。



『人情紙風船』は昨年に引き続きの再見だったけど、やっぱりじーんと心に滲みるなあ、山中貞雄。ラストシーンの水路にふっと浮かぶ紙風船の儚さとその美しさを思うと、もうそれだけでじーんとする。暗く救いのない映画だけど、感傷に流されない強靭さとユーモアを兼ね備えている、まことに稀有な作品だと思う。加藤泰の本によると、彼と共に過ごした映画人たちは揃いも揃って「良かったよなあ、山中のシャシン」としみじみ述懐していたそうだけど、本当にそんな感じの魅力が山中貞雄の映画にはある。



長屋という場所に暮らす社会の底辺で生きる人々を描写してドラマを創り出す。この映画を観ながら、何となくふと、リスボン路面電車の行き交う下町のような騒々しい場所で暮らす人々を描写してドラマを創り出すオリヴェイラの『階段通りの人々』を思い出したりした。『人情紙風船』を観ながら、オリヴェイラ『階段通りの人々』を思い出してしまうというのは、どちらの映画にもユーモラスな盲人が出て来るという、ただそれだけの類似じゃないような気がするのだけれど.....。