しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


モダン都市・函館周遊 その2



横浜や神戸などもそうだが、ここ函館も坂の多い街だ。港街と呼ばれるような場所は皆そうなのだろうか。そうして、だいたい山の上に外国人の旧居留地があったり、洋館や教会が立ち並んでいたりする。横浜の山の手、神戸の北野、函館の元町地区。道幅のもっとも広い石畳の美しい基坂のふもとからは函館山が真正面に見える。一番海が青々と綺麗に見える八幡坂はまるでサンフランシスコの絵葉書みたいだ、と思う。その他にも、二十間坂、常磐坂、船見坂、魚見坂などなど、函館の、特に西部地区にはほんとうに坂が多い。その中でも、わたしにとって特別な坂が大三坂である。




大三坂を山の方に登ってゆくと、右手にカトリック元町教会がそびえ立ち、その先を右へ折れるとりん二郎も描いたハリストス正教会があるし、その先を左へ折れると聖ヨハネ教会があるという、古い建築好きには堪らないエリアなのだけれども、そのカトリック元町教会の隣りに亀井勝一郎が住んでいて、そのお隣に十蘭こと阿部正雄が住んでいた(写真左はちょうど十蘭の住んでいた辺り)。道を隔てた所には「亀井勝一郎生誕の地碑」なんてものがある(十蘭や長谷川四兄弟の碑はないのに!)。そして、そこからほんの数メートル先の角、現在は元町茶寮という名の喫茶店のあたりに、長谷川海太郎・りん二郎・濬・四郎の兄弟が父・長谷川淑夫と母・由起、妹・玉枝と共に住んでいた。亀井勝一郎は、その著書の中で「久生十蘭(本名は阿部正雄氏)家は私の隣にあったが、後に私が文学を好むようになったとき、私の父は「決しておとなりの正雄ちゃんのような不良になるな」と懇々と戒めたことを記憶している。学校をサボって、ベレー帽をかぶり、マンドリンをぶらさげてぶらつくような中学生は、当時十蘭氏ただひとりだったからだ。」(『私の文学経歴」)と十蘭の印象を書いている。また、水谷準も「十蘭はすばらしい嘘つき、といって悪ければ、一種の幻術師だった。彼が吸うとゴールデン・バットは阿片のように見えた。何をやってもさまになり、モダンに見えた。牧逸馬(=谷譲次)がコーンウィスキーなら十蘭はブランデーだった。」と二つ年長の十蘭に憧れのまなざしを向けている。




中華会館のほど近く、弥生坂と東坂のあいだに、長谷川四兄弟や久生十蘭水谷準亀井勝一郎今東光・日出海兄弟らが通っていた「弥生尋常高等小学校」(現在の函館市立弥生小学校:写真右)がある。啄木も一時代用教員をしていたというこのモダンな小学校舎も統廃合で解体される計画が持ち上がっているらしく窓ガラスには「さようなら弥生小学校」とあった。こうして写真に残せるのもこれが最後かもしれない。本当に古い建物がどんどん消えてゆく.....悲しきことなり。かつて函館きってのモダン建築だったカネモリビルが今やほとんど見る影もなく「北島三郎記念館」になってしまったように。




十字街から谷地頭ゆきの市電に乗って、終点で降りる。そこから一キロほど歩いて行くと啄木一族の墓地があり、さらにその先へゆくと立待岬(写真下)がある。その手前に長谷川四兄弟の父にして、一貫して反権力にして破天荒なジャーナリスト、「函館新聞」主筆だった長谷川淑夫(世民)の碑がある。この長谷川淑夫という人について書かれたものを読むと、それぞれに個性豊かな四兄弟が育ったのも判るという程に、父も息子達に負けず劣らずユニークだ。大逆事件の余波による筆禍事件で逮捕され、その後も大正6年には選挙違反の罪でまたしても入獄、さらにその二年後にもトロツキーの書評を書いていち早くロシア革命を賛したということで三度目の筆禍事件による逮捕。佐渡時代には自由民権運動に傾倒して犬養毅の普通選挙に共鳴しつつ、一方で、国家主義者の大川周明とも交わり満州国*1を支持し、天皇崇拝者でもあった。佐渡時代の教え子だったのちの右翼の大物・北一輝にも大きな影響を与えたらしい。そんな父であったから、函館中学で長谷川兄弟たちと一緒だった怪傑フィクサー田中清玄は「(長谷川淑夫は:引用者注)戦争反対論者だった。ですから。男の子供がたくさんいたけど、だれも軍隊になんか行きませんよ。」と述べている。(関係ないけれど、ちくま文庫で復刊された『田中清玄自伝』はめっぽうおもしろい読みもの。長谷川世民も凄いが、田中清玄はもっと凄い人物かもしれない。閑話)



函館公園を下って、あさり坂とのぶつかった角にまたしても(!)亀井勝一郎の文学碑があった。結局、帝大卒のエリートお坊ちゃんの碑は建てられても、素行の悪い不良少年出身作家や軽佻浮薄なモダニズム文学やドロップアウトのめりけんじゃっぷや寡作遅筆の画家の碑は建たないってことですか。まあ知名度は別格としても、啄木だって別に函館に長く居た訳でもないのに、何故この二人だけが「函館文学者或いは芸術家の顔」と(未だに)なっているのかが個人的には解せない納得いかない。谷譲次だって「めりけんじゃっぷ」ものについては近年再評価されているし、特に、十蘭なんて近々新しい全集の刊行も予定されている注目作家だし、本当に現在進行形で新しい読者を獲得しつつあるのに。かえって、亀井勝一郎なんて今読まれているのか知ら?と大いに疑問あり。まあ、久生十蘭にしても長谷川海太郎もりん二郎も濬も四郎も水谷準も碑を建てるだなんて、そんなのはまっぴらご免!というかもしれないけど。という訳で、そのあたりの新しい状況を鑑みて函館市文学館にはもっと頑張ってもらいたい(いつまでもひとつ覚えに啄木、啄木じゃ仕方ないのではないでしょうか?)と勝手に期待しまーす(って相変らずエラそうに!)。

*1:満州国といえば、甘粕正彦が青酸カリで自殺を図った時にその場に居合わせたのが、長谷川濬内田吐夢、赤川孝一(赤川次郎の父)だったそう。