しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

南部僑一郎『愛の国境線 炎の女 岡田嘉子』(ノーベル書房、昭和44年)



こーれーはー凄い本。何がってタイトルはまるで岡田嘉子の伝記本なのに、中身はもちろん岡田嘉子のことも書かれてはいるものの、その当時の映画人たちの素顔や人となりについての描写にかなりの割合で頁が割かれており、それらの記述部分が鍵括弧付きの会話の多さと相俟って、何とも瑞々しくいきいきと立ち昇ってくるのです。これは、実際その当時に彼らの側に居たものにしか書けない貴重な記録。『椿姫』の撮影中に岡田嘉子と竹内良一が失踪した事件が起こったときの阪妻の言葉(「日活さん、えらいことですってねえ」「岡田嘉子という女優、ぼくは好きなんです」)とか、入江たか子が日活を突然退社して新興キネマ内に入江プロを作るべく富士屋ホテル(!)に匿われていた時の日活・池永所長の言葉(「入江が日活を出た?そんなことは絶対にない。噂を信じちゃいかんよ。」「.....ええかね、もしきみたちが入江を見せろ、というならば見せんでもない。だが、わしは絶対にわからんところに隠しておいておるのじゃ。」)とか、いちいちとてもおもしろい。



なかでも、「お!」と思ったのは、シネマヴェーラ清水宏特集で観た『銀河』に出演していて印象深かった毛利輝夫についての記述。毛利輝夫は南部僑一郎の紹介状と高田稔の手紙を持って蒲田に入ったのだという。高田稔はよく面倒をみてくれて、小津安二郎『朗らかに歩め』(1930年)で彼が主演になった時、毛利輝夫にもいい役をつけた。それなのに、それから間もなく蒲田脚本部員の女性と撮影所近くの鉄道で心中したのだという。大日向伝は毛利輝夫と中学の同級生だった。ルビッチばりの日本人らしからぬ「イット」の持ち主、毛利輝夫をもっと作品の中で観てみたかったなあと思う。



それから、P.C.L.の『ほろよひ人生』の撮影小話も『青空』のメロディと共にラストシーンを思い浮かべてにやにやと頬が緩む。あのエキストラたちはみんな撮影所の関係者だったんだなあ。

昭和八年の八月はじめだったか、酒のみどもは集まれ、と誰かがいい出した。
「今夜は全部タダでビールの呑み放題パーティをひらくから砧撮影所に集合」
用事のない連中はすべて顔をそろえていた。セットはビヤ・ガーデン風で、われわれはそこのお客というわけだ。ビール会社とのタイアップ映画であった。(中略)
監督はわたしの京都時代からの友人、木村荘十二、主演はアメリカ帰りの大川平八郎、新しい女優で琴の名手ときいた千葉早智子、そのほか徳川夢声藤原釜足古川緑波大辻司郎、友だちばかりである。われわれは客だから芝居もなにもいらない。ごきげんで呑んでいればいいのだ。

さて、この辺で肝心の「本日の英パン発見」ですが、この本には岡田時彦に関する記述がかなり多く、それだけ著者の南部僑一郎と英パンとの親しい間柄が忍ばれます。何処から取っている情報だかよく判らないのですが、この南部僑一郎岡田時彦の著書『春秋満保魯志草紙』においても、ゴーストライターとして手を加えているとかいないとか。


『椿姫』の撮影中の岡田嘉子・竹内良一失踪事件についての英パンの言葉。

岡田時彦は二十四歳だった。古い言いならわしで、”眼から鼻に抜ける”ような聡明な青年だった。そういえば、その眼のきれいさ、はげしさ、鼻の型は日本人ばなれしていた。(中略)岡田時彦は『彼をめぐる五人の女』のまえ、嘉子と『新生の愛光』で共演していた。(中略)

「嘉子さんは本気ですかねエ.....もっとも恋なんてもの、だいたい狂気みたいなもんでしょうからね」

岡田時彦の言葉はいつも歯に衣をきせない。あの青白く美しい青年がずばりとものをいうときは、なにかすさまじい感じがした。

「芝居のうまい人でしたねえ。性根がはいってるてな芝居でしたよ。相手をしているとやり甲斐がありましたよ。」

めったに人をほめない彼の言葉だけに重みがあった。
横浜の外人墓地に、陽をあびてあでやかに咲いているボケの花をみて、「岡田嘉子長襦袢一枚でゲラゲラ笑っているようだ」と岡田時彦がいったのは有名な話である。彼は文章もうまかったが、駄ジャレや地口がたくみだった。いまのこっている自伝風な作品をみると役者には惜しい男だったとしみじみ思う。
嘉子に竹内を紹介したのも時彦だった。(中略)

「......彼女、死んだりなんかしませんよ。そんなひよわな女じゃない。日活も琵琶湖をさがしたりなんか、あれは世間体をごまかしているだけですよ」と彼はにやにや笑っていた。

また、著者が不二映画時代の英パンと岡田嘉子とで銀座で飲んだ時の記述。

岡田時彦が:引用者注)「ああ、おれも、もうすぐ三十になるんだ。役者としては、これからが本筋になるんだなあ。」

とちょっと詠嘆調にいうと、

「なにいってんのよ、だったら女のわたしなんかどういうことになるの。あんたと同い年じゃないの」

嘉子は何とはなしにいやな表情をしていった。(中略)

「いや、美人に年なし、てんだから、あなたなんかいいですよ.....このまえ古い本読んでたら。五世団十郎が”わが思うほどは、こまかに人を見ず”といったって書いてあったけど、なんとなくいやになっちゃったな。役者の心がけというやつが、これほどちがうとはねえ」(中略)

「清水延寿太夫はねえ、もし自分の声が衰えたらば、それは年のせいじゃない。一に不養生からきたものなんだ、なんていっていたそうだ。まったく名人上手という人はいやなことをいうもんだな。おれなどこの話を聞いてまいったよ。」

五世市川団十郎なら百年以上も昔の人で、そのころの文人、芸術家と深く交わった役者として知られているが、延寿太夫といえば生きていた家元で、たしか六十九か七十歳になっていた。英パンは奇妙なことをよく知りよく覚えていた。だがあとになって、それからたった一年ののち、彼が亡くなったとき、彼のいったことがよくわかるような気がした。(中略)

「ねえ、もう一度蒲田にかえってきたら?」

「だって、ずっと蒲田じゃ。岡田の復帰絶対反対*1なんて、ビラまではりつけてあるそうじゃないですか。そんなとこに行ったらば、えらいことになりますよ」

「そりゃ、本当だ。ぼくの聞いたとこじゃ、も一度日活にはいるって話だけど.....」

「日活ねえ.....それでも”竹薮の根っ子につまづきながら現代劇はとれない”*2なんていった手前、いまさら帰れないんじゃないですか。今でもそう思ってるんですがねえ。もっとも東京の、ここら近所のペイブメントを歩いてたって、不二映画みたいじゃ現代劇はとれませんな」

日活はもう一度帰ってこい、と必死になって岡田時彦をさそっていたことをよく知っていた。竹薮の根っ子のエピソードは、時彦がどこかの雑誌に随筆でかいたことで、京都の現代劇俳優たちが激怒したことである。

結局、昭和八年一月中旬、岡田時彦は新興キネマに移籍、ちょうどその頃、岡田茉莉子が生まれる。

京都の十月はいい季節だった。新興キネマで岡田時彦にあうと、蒼白くやせて落ちつきがなかった。

「京都は失敗でしたな......」彼は静かにさびしそうにいった。

「やっぱり来るんじゃなかった。だが仕方がなかったんですよ。なんにもとらしてくれない。出るものは、どれもこれも、あきれたようなシャシンです」

あきれたのは彼だけではない。わたしもそうだった。この二月にわざわざ彼のような新しく鋭い演技をもっている俳優を入社させておいて、その最初の作品を入江たか子プロダクションの『須磨の仇浪』に入江と共演させている。(中略)
だが、新興キネマのこのような古風な企画の傾向はひとつの奇蹟に近いものを生み出した。この作品のあとで、溝口健二監督が入江と時彦をつかって『滝の白糸』をとったことである。(中略)『滝の白糸』の撮影はその年の三月中旬からはじめられた。

「これは新派悲劇じゃありませんよ。ほんとの悲劇です。古い時代に女がはげしく自己主張すると、こんな具合になるほかなかったんです。きみ、知ってますか」

「まあ知ってるとは思いますけど......」

「きみたちなんか、新派だってんでナメてるんでしょう。顔にかいてありますよ」

「そんなことありませんよ。どんなシャシンができるかって思っているだけです」

溝口はわたしと岡田時彦にそのようなことをいった。たしかに、ちょっとばかり心の底を見抜かれた気がしないでもなかった。

時彦は、

「ここんとこで、ちょっと岡田嘉子が出てきて、溝口さんのいうことを聞いていたらばどうなるか、なんて考えるとちょっと楽しいですね.....彼女お元気ですか」

「元気ですけど、なんだか冴えませんねえ」

「いい仕事がないんでしょう。役者ってもん、弱いものですな。いい仕事だとバカみたいにはりきるし、悪いときは急にしょげちゃうし、まったくだらしのないもんです」(中略)

彼がこの映画で主役の水芸の太夫に岡田嘉子を想像していたであろうことはたしかだった。まったく嘉子という女性は、この悲劇のヒロインのようなこころをもった人だった。

岡田嘉子岡田時彦の『瀧の白糸』!ああ、これは観てみたかった.....実現したら、きっと物凄い傑作になっていただろうと思う。もし主演の太夫が岡田嘉子だったら、淀川長治さんももしかしたらこの作品を褒めていたかもしれないな....と想像してみる。それにしても「あなたたちナメてるんでしょう」って英パンたちにすごむ溝口健二、やはり凄いな。


たいへん長くなってしまったので、いよいよ英パンの死についてはまた次回に続きます、ええ、まだ続きますとも!


*1:この件は雑誌『蒲田』にも載っているのだけれど、不思議なことに誰一人として自分が一員だと名乗り上げる者がいないと書いてある。不二映画からの回し者がやっているという噂が濃厚だ、という文で締めくくられている。

*2:当時の日活太秦の撮影所は辺り一帯を竹薮が覆っていたらしくそれを揶揄して英パンが言った言葉。