しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

北村初雄から吉田一穂へ、吉田一穂から三富朽葉


この二月は東京も凍てつくような寒い日が続いたので、吉田一穂を読むにはうってつけといった感覚があった。「知性の力で極限まで表現を研ぎ澄ました〈極北の詩〉を理想とする〈孤高の詩人〉」(岩波文庫『吉田一穂詩集』より)日の暈と月の暈。「月暈」という言葉が何となく前から気に掛かってノートに書いていたのを、吉田一穂の詩集を読んでいたら「暈」という文字がひんぱんに出てくるので、そんなところも気に入る。たとえばこんなフレーズ。


「おぼろな指ざしに環る月暈」(「晩課書」)
「滲む日の暈に、寂しい午後は来る。」(「暦」)
「光と影に眩暈く水の氾濫!」(「春」)
「族の夢の沸騰する昏い碧の眩暈」(「海鳥」)


「最後の絶対詩人」というのは、まさに吉田一穂のためにある言葉だなと思わせるのは、読んでいてぞくぞくするようなこんなフレーズ。


「無風帯に闘争を超えて高く、いや高く飛翔し、時空一如の諧調に昏々と眠りいる黄金の死点」(「鷲」)
「地に砂鉄あり、不断の泉湧く。また白鳥は発つ!雲は騰り、塩こごり成る、さわけ山河」(「白鳥」)


マッチョではあるけれど、いや、かっこいい!


吉田一穂が「はじめて読んだ詩集」として、シェリーとともに挙げているのは三木露風である(『詩神』7巻, 4号/1931年)。北村初雄は三木露風の高弟であったから、これはきっと吉田一穂に何らかの影響を与えているのではないか?と思って調べてみた。すると、大正9年1920年)、北村初雄の訪問から遅れること3年、函館のトラピスト修道院に逗留していた三木露風を一穂は訪れているし(あまり良い印象をもたなかったようであるが)、彼の詩集を読みすすめてみると、果たして「愛の章」(『故園の書』(厚生閣書店、1930年)所収)には、「室の隅で薄紫の羅針が顫へる」というフレーズまで出てくるのだった。一穂の第一童話集のタイトルが『海の人形』であったというにとどまらず、「薄紫の羅針」(id:el-sur:20120221)という言葉まで作品のなかにすべりこませていたことは、北村初雄と吉田一穂を考える上で私的には嬉しい発見であった。


その吉田一穂がアンケート「大正十五年度の作と人」で最も感銘の深かった著書として挙げているのが『三富朽葉詩集』であったので、北村太郎がその詩的出発において心酔していた詩人だったこともあるし、今度は三富朽葉(みとみ・きゅうよう)という詩人(なんと言う読みなのかもよく知らなかった)を読まなければいけないような気がしてきたので、ハードカヴァの布張りの重い全集をいそいそと図書館から借りだしてきたところ。


長崎県壱岐の生まれの三富朽葉は、バカンスで訪れていた犬吠埼にて、溺れた友人を助けようと荒れた海に飛び込み、友人もろとも溺死した。28歳になる年のことであった。犬吠埼燈台にはその痛ましい事故のあと、朽葉の実父により「涙痕之碑」が建てられたそうである。昨年からふつふつと燈台が気になりだして、犬吠埼はいつか行ってみたい場所のひとつになったけれど、そんな悲しい記憶を遺した碑が建てられていたとはつゆ知らなんだ。今もまだあるのかな。これは今夏にでも行って確かめてみたいことのひとつとなった。燈台下に碑が建っているなんて安乗埼の伊良子清白みたいだな、とも思う。


いろいろ気になる三富朽葉については、また次回(書けたらいいな)。朽葉も北村太郎と同じく「素敵」を「すてき」とひらがな書く感覚の持ち主のようだ。