しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

そして、本命の蓮實重彦山根貞男編『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI 2006」の記録』*1。昨年の8月に、このシンポジウムのために来日したビクトル・エリセの、あまりにも感動的な溝口作品にまつわるエピソードの切れ端をウェブ上で目にして、彼がその時口にしたという「人生を凌駕する映画がある」という言葉に、ただ涙が溢れ心が震えたのだった、わたしはそのシンポジウムに参加もしていないのに。熱心な溝口礼讃者でもないのに。



そのエリセが語った言葉をこの目で確かめたくて本を買った。果たして、彼の言葉はそこにあった。
泣けるとしか言いようがない。

そして私はじゃがいもの皮を剥きながら、突如実感したのです。人生に勝る映画もあるのだと。人生を凌駕する映画があるということは、しばしば言われていることですが、それは本当なのです。(p.125)

さて、その他の方々は、と言うと。
阿部和重の物言いは青山真治系列のトリッキーというか、めちゃくちゃ映画を観ている人の発言*2なのでどうも言っていることが難解でよく判らない部分もあるし、難解といえば、ああ!、ジャン・ドゥーシェもまたそうだし、三丁目の人は溝口作品を4本しか観ていないのにそんな人の言葉を読んでもなあ、というのであれだし、という訳で柳町光男のオーソドックスな分析と井口奈己の素直な発言に頷く部分が多かった。井口奈己の「己」の部分は、そうそう、わたしも蓮實重彦と同じく、ずっと長いこと成瀬巳喜男の「巳」だと思っていたくちだけれど、違うのよね。



井口奈己は『近松物語』や『残菊物語』を観た後、映画全体に漲るあまりの集中力にショックを受け「映画はもう撮らなくてもいいんじゃないかな」「これから先、新作が世界中で生まれなくてもいいんじゃないかな」と思った、と述べているけれど(p.32)これは本当にそうそう!としか言いようがない。つい最近になってようやくDVDで観た『近松物語』は本当に素晴らしくて、ただ観ていてぞくぞくするほどに凄い映画作品だった。批評とかそんなものを超えたもっとずっと物凄い高みに綺羅星のごとくに存在している映画だと思う。ただ、個人的な好みの問題で、香川京子の声が大へん素晴らしいけれど、長谷川一夫がどうにもやっぱり二枚目・長谷川一夫でバタ臭い気がするので、その点のみで比べてしまうと、花柳章太郎の『残菊物語』の方に軍配を上げてしまうのだけれど。『残菊物語』の素晴らしさは、ちょうど小津安二郎東京物語』における原節子と同じように、森赫子の圧倒的な、そう、フローベールの「純な心」とでも言うべき無垢なる魂が映画全体を真の輝きで満たしていることだと思う。それだからこそ、ラストシーンにおける道頓堀での贔屓衆を前にした船乗り込みで花柳章太郎が見せる晴れ姿がただただ胸を打つ。このシーンに涙しない観客など果たしているのだろうか?という位に感動的なシーンだと思う。もう、昨今のバカのひとつ覚えみたいなお涙頂戴インチキ純愛映画を観てイカサマ涙の大量消費している暇があったら、本物の映画を観て真の感動に打ち震えなさいよッ!と、誰にとでもなく吠えてみたくなったり、って余計なお世話ってとこですね、ハイ、すみません。



それと、井口奈己の目の付けどころは凄いなあと唸る。何だろう、この人の映画の見方が凄いというか、こんな(意外な)ところを見ているのか!というのが、やっぱりただものではないなあと思う。しかも、一番好きな溝口作品は『噂の女』と来ましたか!これは凄いなあ、この理由をぜひ聞いてみたい。『犬猫』もよかったし、今度の金井久美子さんの展示でも『犬猫』DVDが美恵子先生の本と一緒に作品になって収まっているのも金井姉妹のファンとしては、あら、羨まし!と思うことしきりだったし、今後も注目していきたい数少ない現代の映画作家となりました。

*1:isbn:9784022599223

*2:小津シンポジウムの時の、ほとんど呪文のような青山真治発言「並んでる、並んでる」にも似た「彼らはとにかく逃げようとしています」というような種類の。