しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

赤の似合う男ー『カメラになった男 写真家中平卓馬』(シネマアートン下北沢
http://www.cinekita.co.jp/lineup/camera.html



その急性アルコール中毒で記憶と言語の大半を失った伝説の写真家のことを、わたしは家人に名前を聞くまで全く知らなかった。その男の名は中平卓馬


いつも赤い何かを、まるで自らのラッキーカラーか何かのように身につけて(赤い帽子、赤いTシャツ、赤いスニーカー、赤いジャンパー...)たえず首からはふちの黒がところどころ白くはげかけているレンズのキャノンをぶら下げた、ひしゃげたようなやせ型の男。仙人のようなぼさぼさの長髪を一つに結わえておまけにピン留めまで付けて、手足の長い霊長類のようなひょうひょうとした足取りでとにかく写真を撮るー仲良しの猫「逃げないんだよ。こっちが写真家だって、ちゃあんと判っているんだからね」を撮り、土手で昼寝をしている人をこっそり撮り、赤白のタワーを撮る(あ、小津じゃん!とにやにや)その人を見ると、一目でああ、普通の人ではないな、と判るような男。


とにかく映画がどう、とかカメラがどう、とか言う前に、もはや何と形容していいか判らないくらいに中平卓馬という被写体が凄すぎるのだけれど、チラシに寄せているコメントの、あのいつもクールな浅田彰にしてはどうしたのかと思うくらいに熱っぽく扇情的に「この人を見よ」と一言言っているのもあながち無理はないなと映画を観ながら思う。何と言うか、ただその人がそこに映っているという、ただその事実が物凄いことなのだ。そう、ちょうど『祇園の姉妹』の山田五十鈴のように。


人は生きる過程で様々な不必要なものを嫌が応にも身につけてしまう。しがらみや、建前や、お世辞や、処世術や、いや、不必要なものではなく、それらは潤滑に社会生活を送る上では必要不可欠と言った方がいいだろう。そういった当たり前に大人が身につけているものを、この無垢なるカメラ・アイを持った人は一切持ち合わせていないように見える。究極のラディカリスト。人は一度記憶や言語を喪失することで、もしかすると、全く新しい人間に生まれ変わることができるのだろうか?その可能性の中心。そこに立ち顕われてくるのは、一切無駄なものを捨て去り、研ぎすまされた核としての、混じりっけなしの純粋な目があるだけだ。


それを示すこの映画の白眉といえるのは、東松照明沖縄県を題材にした写真展のシンポジウムに、アラーキー森山大道とともにパネリストとして招かれた時の映像だ。壇上では、名前がきちんと書いてあるにもかかわらず、主役の東松照明を差し置いて、自らが真ん中に座ろうとし、あんなにお世話になった*1東松照明を前にして(しかもそこにはアラーキーも居たというのに)「今、日本で写真が撮れるのは俺と森山だけだ」と言い放ち、コーディネーターの港千尋をはじめとしたパネリスト一同を唖然とさせ、写真展のタイトル「写真の記憶 写真の創造」というタイトルが気に入らないと言っては主催者側に噛み付く。曰く「写真はクリエイションではない、ドキュメントなのだ、こんなタイトルで沖縄が撮れるのか?」。最後には、司会者の制止を半ば振り切るような形で観客をアジりだす始末。


カッコいいなあ。こんな凄い写真家が日本にいたのか!いやはや、このアナーキーさ加減ったら。もともと精神パンクには心情的に弱いわたしではありますがそれにしても凄いよ。


あと、もう一つ凄いのは、海辺で写真を撮っていると、観光客がやってきて、シャッターを押してくださいと頼む。もちろん彼らは写真家としての中平卓馬を認識していない。それも可笑しいのだが、その中の女性が「海も入れてください」と言うと、「ああ、海ね」といいながら、どんどん彼らを置いて海の方にカメラを向けながら砂浜を降りて行ってしまう。ありえない話だと思うけど、これ素でやってるから!もうね、凄い。すべてがFar-outなのです。


という訳で、興奮冷めやらぬまま感想を書きなぐっていますが、ほんとにマジで思うところのある人はみんなこの凄い写真家を目撃した方がいいと思います。


それと、小ネタですが、乙女畑の人として認識していたあの素敵なコロナブックス『東京山の手ハイカラ散歩』の大竹昭子さんが昔、芸術新潮の中で中平卓馬と沖縄に行っていたのが驚きだった。彼女の『眼の狩人』にはその時の話も書いてあるようなのでこれを機に読んでみようと思う。


『カメラになった男 写真家中平卓馬』は26日まで、シネマアートン下北沢にて上映中。

*1:彼に写真をやるきっかけを与えたという東松照明は、中平の結婚の仲人までやったという