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しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

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多田智満子を読む


ふと気になって手に取った多田智満子の詩があんまり素敵なので驚いている。「多田智満子」の名前は、マルグリット・ユルスナールの翻訳者としては届いていたけれど、詩篇はほとんど読んだことがなかった。おお、わたしはいつも遅すぎる。


多田智満子の詩には、とりわけ初期の詩には、わたしが詩にもとめているもの(とても大切なユーモアを含めて)がそっくりそのまま在るので「これは、これは」と眼をみはった。こういう言葉で構成された詩をわたしは読みたい。ごく稀にしか出逢うことがないけれど、こういう詩篇を味わう愉楽のために詩を読んでいるのだと思う。まるできらきらしたノヴァーリスの断章を読んでいるかのようだ。いや、知性に裏打ちされた詩の言葉が紡ぎだす結晶度の高い美しさだけではない。かの女の詩には湿潤の風土とはほど遠い乾いた風が吹いていて、何しろきっぱりとかっこいいのだから。個人的な好みとして女女している書きものが嫌いということもあるけれど、現代の女性詩人で、五月の風のように颯爽とした硬質な言葉のプリズムを持っている人にはじめて遭遇した喜びがある。とはいえ、まだ現代詩文庫と『定本多田智満子詩集』(砂子屋書房、1994年)をちらと読みかじっただけなので、ほんのさわりに裳裾が触れたばかり。これから多田智満子の書いたものを少しづつ折にふれて読んでいきたい。とてもたのしみ。とりいそぎ、第一詩集『花火』(書肆ユリイカ、1956年)より気に入った詩篇を引用します。



黎明
 Nに


みずからの足跡を静かに踏んで
棕櫚は棕櫚のまわりをめぐる
ようやく透きとおる砂浜に
かるい水泡の裳裾を曳いて
小島は小島のまわりをめぐる
海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
沈み去った星座のあとを追って
薔薇いろの帆船は沖に消える


疲れ


装置をはずした舞台にまだ
二つ三つ星がころがっているからといって
睫毛の塵を星雲とこころえることもあるまい
みずからの美貌にみとれた神に
むかしの台詞を思い出させるなどは
どんな賢い人にもできなかったことだ
欲望を耕すのをやめれば
髪の毛はひとりでにしずかに枯れてくる
神は捨てもしないし拾いもしない
これという今がないので
時間はみみずに似てくる
あやしげな足場の上で
人は未完の背景を描くのに疲れた


告別


わたしは世界に用がない
世界もわたしに用がない
法螺貝の耳にはなびらをつめて
わたしはたのしいつんぼになる

波はなおも舌をひろげて
不味い砂浜を嘗めにくる
わたしの髪はのびすぎた

お仕着をきた言葉たちに
望みどおり暇を出そう
退職金にはささやかながら
眼からこぼれた真珠をひとにぎり

海豚の手綱を曳いて
わたしは退潮の時刻を計る
秒針がさびついているのも見ぬふりで


わたし


キャベツのようにたのしく
わたしは地面に植わっている。
着こんでいる言葉を
ていねいに剥がしてゆくと
わたしの不在が証明される。
にもかかわらず根があることも......


微風


舌をころぶびわのたねのように
なめらかに六月は通りすぎる
てのひらにのせた氷のかけらも
あしたに凝ったかなしみも
おのずから体温に溶けてゆくとき
ゆうべうすあかるい空をまとって
女はひとりいたずらにやさしく
髪のなかの微風をしばしいたわってみる


晩夏


祝祭に疲れた夏の
やさしいゆうぐれ
水は澄み
魚は沈んでいる

けだるい腕に
残りの花輪をささげ
はやくも夢みている
樹木たち

くちばしに
黒い音ひとつくわえて
最後の鳥は通りすぎた

さらば夏よ
去りゆく足をはやめよ
――星はしずかに水に落ちる――



どうです?素敵な詩でしょう。

これらの詩篇を読んで何も感じるところがない人とはお友達にはなれません(きっぱり)。