しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

金澤一志『北園克衛の詩』(思潮社、2010年)*1

ご恵贈いただきました。ありがとうございます。


小ぶりの瀟洒な白い本は著者自装。カヴァをはずすとフランス語が躍っていてまるで洋書のような佇まいである。洗練の極みとも言うべきスタイリッシュな北園克衛の本なのだからこう来なくては!とにんまりするような装幀。花布のレモン・イエローも真昼のレモンのようにまぶしくて、北園克衛にぴったりだ。


はじまりから余談を綴るのを許してもらえるならば、わたしの中のモダニズム詩のイメジも白とソオダ水とレモン・イエローだ。表紙まで刷られたのに未刊に終わったボン書店「生キタ詩人叢書」の幻の一冊、瀧口修造『テクスト・シュルレアリスト』の背景色もそうであったし、神奈川県立近代文学館で閲覧した井上多喜三郎の詩誌『月曜』の表紙もモランディ・ブルーに鮮やかなレモン・イエローの幾何学模様がとてもよく映えていた。


多彩なジャンルの芸術の交通と横断的越境を夢見た「アルクイユのクラブ」や、阿部金剛から古賀春江ル・コルビュジェからミース・ファン・デル・ローエまでを楽しみながらコラージュしたかのような紀伊國屋書店版"L'ESPRIT NOUVEAU"の斬新な誌面に目を見張りながらも、詩人としての北園克衛に、わたしがそれほどには興味を抱いてこなかったのは、たぶん、わたしが詩や言葉というものに対して抱いている感覚と、北園克衛のそれとのあいだに差異があるからではないか、とこの本を読んで思う。


けれども、そうか、彼のデザインや装幀やあの抜群のディレクションを「詩と同様に中心から伸びる枝のそれぞれで、それらの幹体が北園克衛が言うところの「詩」である」(p.10-11)とする著者の思考法に沿うならば、北園克衛のこれらの仕事――わたしはそれを詩人とは別の仕事と思っていたのだが――に感嘆のため息を吐くことも、すなわち詩人・北園克衛の「詩」作品にそのまま向き合っていることとイコールで結ばれるのだ。


北園克衛の「図形説」を眺めていて、ふと、平出隆『遊歩のグラフィスム』を読んでいて、正岡子規「小園の図」におけるカリグラムの手法がジョセフ・コーネルの"Crystal Cage"みたいだなと思ったことを思い出した。子規とコーネルのあいだに、アポリネールと「図形説」を置いてみたらどうだろうか、などとつらつら考えたりする秋の宵、窓硝子が白く煙っています。