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しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


折口信夫尾崎翠のこと  その1



川崎賢子尾崎翠 砂丘の彼方へ』(岩波書店、2010年)というスリリングな著作に感化されて、ここのところせっせと折口信夫尾崎翠のかかわりについて調べている。



と言っても、折口信夫尾崎翠の「かかわり」なんてものはないのかもしれないけれど、直感的に「やや、これはもしかすると!」と、ぴんと来てしまったのだから仕方ない。長いこと読みつづけてきた尾崎翠はともかく、折口信夫についてはわたしはまったくの門外漢なのだから、まるで折口信夫という広大なコスモロジーに懐中電灯ひとつ携えずたった一人放り出されたようなものだし、この奇妙で切実な惹かれ方をいつものように「魅せられた」のひとことで片付けてしまってよいのかどうだか。ともかく、最初はあくまで翠とのかかわりを調べようと読み始めた折口信夫だけれども、ふと気がつくと、そのふかいふかい言葉の森のなかに、ほんの足先だけ踏み入れてしまっている。折口(おりくち、と読むのが正しいのだそう)信夫の紡ぎ出す言葉は、いや、これはこれはうつくしい日本語なのだった。知らなかった。もっとも、わたしの場合は、民俗学者国学者言語学者の折口信夫というよりは、歌人で小説も書いた文学者としての釋迢空のほうへという気持ちがあるのだけれども。



尾崎翠のデビュー作「無風帯から」に続いて『新潮』に掲載された「松林」(1920年12月)という掌編は、本書で詳しく触れられるまでは、目立たぬ初期作品ということもあって特に注目もせずにいたのだが、あらためてこの論考に導かれるかたちで「松林」を再読していて、あれ?と思ったのは、この作品は折口信夫の自伝的小説「口ぶえ」(1914年)に肌触りがよく似ているということだ。



「松林」を注意深く読んでみると、そこには確かに、川崎賢子が述べているとおり「彼」と彼の「ペット」の犬のあいだの異種間交配を含んだ「あやうい衝動」があらわになっている。多和田葉子『犬婿入り』に70年以上も先駆けてというところだろうか。いっぽう、「口ぶえ」で描かれているのは、死への憧れも含めた、少年たちのあいだにおける同性間の「あやうい衝動」である。



「二つの心臓が縺れ合つて喘いだ。」(「松林」)
「心臓は激しい鼓動に破れさうである。」(「口ぶえ」)



ふたたび、そういう眼で「口ぶえ」を読み返してみると、あれ、あれ、というくらいに、二つの作品のあいだには奇妙な符合が見て取れる、いや、というよりも、先行する作品に対してあべこべな物言いになるのを許してもらえるならば、小説「口ぶえ」には、吃驚するほど翠のテクストに寄り添う部分が多いのである。



わたしにとって折口信夫を読む「道おしへ」となった「口ぶえ」という何とも瑞々しい少年小説を一読して感じるのは、これは「にほひ」と「触覚」の小説であるということで、この感覚はまさに嗅覚や触覚に重きを置く彼女の文学と合致する。さらに、この作品には翠文学ではおなじみの「桐の花」(「時は五月である。(中略)雨が降ると、桐の花の匂ひはこほろぎ嬢の住いにまで響いてきた。」「こほろぎ嬢」)や「耳鳴り」(「耳鳴りが今夜は部屋に蟄居することをひどく嫌って、さっさとオオヴアを引っかけ始めた。」「新嫉妬価値」)「菱形の顔」(「心臓が背のびしてゐます。久しぶりに菱形になったやうだ。」「地下室アントンの一夜」)といったふうな、尾崎翠の愛読者ならば、暫しのあいだそこに眼が吸い寄せられてしまう「翠」的な単語がそこここにちりばめられているのである。



はてな
まさか「こほろぎ」までは出てこないだろう、と思って高をくくって読み進めると、果たして「こほろぎ」そのものはさすがに出てはこないものの、「きりぎりす」「松虫」「馬追」、おまけに「鈴虫」までが登場する(!)というありさまなのだ。これはいったいどうしたことであろうか。



本書の細緻をきわめた調査によれば、浄土真宗西本願寺派龍谷大学に学んだ二兄・哲郎は、1910年代半ばに若き学僧として『六條学報』という学会誌にたびたび寄稿していた。『六條学報』には、「同時代の西洋哲学(中略)たとえばヘッケル、ウィリアム・ジェイムズ、新カント派についての論考」(p.84)があったという。1913年、翠が鳥取高女を卒業した頃の年譜には「京都の龍谷大学に在学した次兄哲郎の影響で仏教書や宗教誌も読み、仏教思想について友人と語り合うこともあった。」と記されている。



折口信夫が「口ぶえ」における最後の舞台として設定したのは、京都西山の善峯寺で、主人公は15歳の中学生の少年である。折口が中学卒業後に同居していた藤無染という新仏教家については、近年になり富岡多恵子が『釋迢空ノート』(岩波書店、2000年)にて折口信夫の「思い人」だったとして、登場人物「柳田」のモデルではないかと推測している人物であるが、折口と同居していた頃の彼は、それこそ翠の兄・哲郎と同じ宗派である京都・西本願寺「文学寮」を卒業した若い僧侶であったという。また、これが同時代性というものなのかもしれないが、折口信夫國學院での卒業論文「言語情調論」に登場する思想家の中には、ボードレール、マックス・ミュラーらと並んでウィリアムズ・ジェイムズの名前が挙っているのである。ただ、翠の兄・哲郎と藤無染の年齢差は14歳あり(折口とは5歳差)、無染は1909年(明治42年)に病死しているので、哲郎が新仏教家として京都でさかんに活動していた時期(1916〜1918年)とはどうしてもそこにずれが生じてしまうのだけれど。



とはいえ、翠の兄・哲郎が『六條学報』にたびたび寄稿していたほどの論客であったということは、当然のこととして同時代の他の仏教誌や宗教誌なども読んでいただろうことを示唆する。折口信夫が短歌を、藤無染が論考を掲載した『仏教青年』(1906年1月)*1や『新仏教』(1901〜1915年)を哲郎が目にしていた可能性も否定できないと思う、というふうなことを言ってみたい誘惑に駆られてしまう。とはいうものの、前者に関しては年代的な開きがあるので留保するべきかもしれないが。



『新仏教』には井上円了(1917年、折口が一時哲学堂を間借りしていた)ら仏教学者に加え、禅学者の鈴木大拙社会主義者の堺利彦幸徳秋水も寄稿していたという。ここで、堺利彦幸徳秋水という二人の社会主義者の名前が出てきたところで、ふたたび、はたと立ち止まってみる。翠が哲郎の影響下に仏教書や宗教誌を読んでいた1913年は、戦後も長く翠とかかわりのあった、画家で民俗学者橋浦泰雄が一時期同じ僧堂に投宿していた年で、彼に多大な影響を与えていたすぐ下の弟・時雄は中学時代から「平民新聞」を読むほどの筋金入りの社会主義者であった*2



また、1914年、折口が弟子の口述筆記による「零時日記」を掲載した『中外日報』は宗教誌であり、今度こそは、翠が「宗教誌を読」んでいた時期にぴったり重なる。同年に、宮武外骨の『不二新聞』に掲載された「口ぶえ」を読んでいた可能性は今のところ未知数(無名時代の菊池寛が投稿していたというが、京都や大阪はともかく、そもそも、鳥取で『不二新聞』は流通していたのだろうか?)だが、伊勢清志名義で書かれた『中外日報』誌の「零時日記」の方は、これも推定の域を出ないのがもどかしいが、仮に哲郎の影響下で翠が読んでいたとしてもおかしくはない。



.......と、なんだか収拾がつかなくなっている気もするけれど、その2へつづく、のか?

*1:安藤礼二『光の曼荼羅 日本文学論』(講談社、2008年)より教えられた。

*2:鶴見太郎橋浦泰雄伝 柳田学の大いなる伴走者』(晶文社、2000年)より教えられた。