しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


帰宅すると、郵便受けに石神井書林古書目録79號が届いていた。あんなに安い買物しかしていないのに......じーんと感動の巻。台所の丸椅子に座り、蛍光灯の灯りで目録を眺めながら夕飯を作る、蕪の葉とじゃこ炒め、焼き厚揚、きんぴら煮、わかめご飯、長芋の味噌汁。夕飯を食べ終わって黙々と目録のつづきを読んでいると、何やら外がずい分と騒がしいので、一度閉めたカーテンを開けてみると、飛沫で白く見えるような雨が打ちつけている音なのだった。


夏の終わりに出逢った詩人、冨士原清一について調べようとしているのだけれど、あまりに文献が少なくて苦戦している。今のところ判ったのは、高橋新吉が『炉』(1948年10月号、炉書房)という雑誌に書いた「詩論5 冨士原清一のこと」という記事と、母岩社の詩誌『ぴえろた』(1970年9月号)で冨士原清一の特集をやっているということだけだ。どちらもまだ現物は見ていない。『ぴえろた』は国会にあるけれど、『炉』の方はないんだよなあ......。特に気になるのは、冨士原清一第一書房に入り、春山行夫のもとで広告文を書いていた頃の話なのですが、なかなか文献探索は難しい。春山行夫冨士原清一について何か書いていないだろうか?と思って、今度は春山行夫について調べはじめたところだけれど、春山行夫春山行夫で、エンサイクロペディストとしての本領発揮とばかりにジャンル横断的に書き散らしているので、これまた別の意味でややこしいことになっている。戦前のモダニズム詩を牽引したばかりでなく、ジョイスやガートルード・スタイン、フォークナーなど同時代のモダニズム文学の紹介にも力を尽くした人なのに、1990年にまとめられた吟遊社の詩集も入手困難だし、きちんと仕事を網羅した全集も刊行されていないなんて......!と、冨士原清一の調べものが上手くいかないのを、春山行夫を巡る不遇な現状のせいにしたくなる昨今。


文献探索の過程で見つけたもの。出典は、中村洋子春山行夫宛書簡記録 北園克衛より」(『文献探索2003』p.317-322)

昭和7年12月17日 京橋:封書(Shiseido Icecream Parlourの封筒と書簡箋)ギンザ→市外中野区城山町40

Mon cher ami monsieur Haruyama,
"文学"*1いただきました。大へんいいね。カラアセッションは面白いが内容的には少しアクティヴィテがない。
これは、僕もその責任の一旦(ママ)を拝受しなければならねえんだろう!
竹中氏の詩集*2ありがたう。それから先日のミイティングに欠席したことは本統に悪るかったと思ってる。
最近出ておいでよ。"後記"の若い詩人たちに就いての幾センテンスは卓見だった。
私にもああいふ洒落たことが考えられると思ふと一寸面白いや。
1933年は凄いことをやるよ。

*1:『文学』4号のこと

*2:昭和7年12月刊行の『象牙海岸』(第一書房)のことか?ちなみに、のちに北園克衛はこの竹中郁象牙海岸』を同年の夏に刊行されたボン書店「生キタ詩人叢書」の一冊『一匙の雲』より劣る、と酷評した。