しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

河野道代『思惟とあらわれ』を読む

河野道代のあたらしい詩集『思惟とあらわれ』(panta rhei、2022年)を読んだ。「無意味」という、つよい言葉で終わる詩集である。

これまでも「わたしの無意味」(「消失点へ向かわない線」/『花・蒸気・隔たり』)や、「なみはずれた無意味」(「珠と替えられたもの」/『spira mirabilis』)など、読者はかの女が「無意味」という言葉を詩に鏤めるのを見てきたが、一読したときは、ふっつり途切れるような「無意味」という言葉が、まるで捨子のように置き去りにされているように思えて、どこか拒絶され、突き放されているような感覚をおぼえた。それは、詩人の書いた散文『詩史の形成』の最後の一文を想起していたからだろうか。そして、詩の言葉に意味を問うことばかりが強調され、意味の通るわかりやすい詩が持て囃される世界に対する否定なのではないかとも思った。

しかし、繰り返し味読してみると、この詩集は何かを否定しているのではなく、否定でも肯定でもない、光と影、虚と実が入れ替わるように反転し、回転し、変転し、その絶え間ない生成のなかで形象を変化させながら虚空に漂っている、とどめえぬものへの希求について記したものなのではないかという気がしてきた。

意味を問うこと自体が無意味であること。「意味の重なりを、削ぎ落とし、研ぎつくし、凝縮して、開いていると同時に閉じているもの」(「形象とアクシス」)。「着こんでいる言葉をていねいに剥がしてゆくと わたしの不在が証明される」(多田智満子「わたし」)。言葉から意味を剥がしていき、たんなる物質としてとらえなおすこと。削ぎ落とすことで見えてくるのは、何か。光を浴びて佇む、ほとんど一本の線と化したような、ジャコメッティのつくる「異形の彫像」(「ジャコメッティ群」)に似たものか。そして、「わたしたちを見つめるもの」(「黙約する眼差し」)をよく見るということ。たとえ「それすらもそう見えるというにすぎない」(フランツ・カフカ)のだとしても。「私が木を見る前から、すでに、そしてほとんどつねに、木が私を見つめている。眼差しの感受が世界の側からやってくる」(三松幸雄「気、夢ノ記」)。

形象を思惟のなかにとらえること。そうすることなしに、言葉の真の姿はあらわれてこないと詩人は考えているように思える。と、同時に、「不測の気圏に進み入」り「澄み渡る真理の境をも過ぎ」(「告げられぬ行先」)てもなお、その先にあるのは、ただ空虚が広がっているのみ、ということも詩人は精確に感受しているようだ。人間が到達できるのは「真理の境」までで、そこから先は大気や雲を掴むように鑑賞や感傷をすりぬけていく渾沌があるばかりで、畢竟、人が望んでも「感覚することのかなわぬもの」(「いたずらな試み」)なのだろう。それは、人間の身体から息を吹き込まれることで成立する文学(とりわけ、詩の発生において韻文と呼吸は分かち難く結びついている)という営みの、はるか太古から存在している、原始の渾沌というべきか。

「真のメルヒェンでは、いっさいが不思議で――謎に満ち、脈絡がなく――いっさいがいきいきとしていなければならない。どれもが異なった仕方であらわれなければならない」とノヴァーリスは書いたが、森羅万象に宿り遍在するポエジーをつかまえて詩の言葉にすることの困難を思い、なんだか途方もない気持ちになる。

『EUREKA/ユリイカ』ふたたび

ことし桜が満開の頃にこの世を去った、青山真治の『ユリイカ』をテアトル新宿で観た。

ロートレアモンを読む中学生、取り調べ室に置かれたエビアン

この映画をはじめて観た時は、こちらが若かったこともあり、こういった細部がどうも鼻についてしまって、あまり肯定的に見られなかった記憶がある。年月を経て立派な中年として再見すると、ロマンティストの芸術家・青山真治の美学がよく顕れている映画だなと思う。一枚一枚の厳格な画は痛々しいほど純粋だ。

冒頭の、問題のバスに乗る二人を見送る、ゆっくり手を振る母親の不穏さがいい。ビュル・オジエの白痴美ではないけれど、白昼につばのひろい麦わら帽子をかぶり、白いワンピースを身に着けて、その動作の遅さが、何もかもが陽光の白に飲み込まれてしまう、うだるような夏の退廃を思わせてすばらしい。

田村正毅によるカメラのセピア色の画調は、画面奥がピンぼけで靄がかっているので、例えば、高山正隆の大正期の新興写真のようにも見える。一瞬、小鉢に入ったお菜(きんぴら?)が写るのもいい。この画調で物を撮りたくなる気持ちはよくわかる。鉄橋をくぐる移動撮影も、オリヴェイラ『ドウロ河』の冒頭みたいでダイナミックでかっこよかった。ふと、列車の車窓から見た、八幡製鉄所の外観を思い出したりもした。北九州人特有の鉄のある風景へのこだわりかもしれない。

土砂降りはやはり『浮草』を思い起こしてしまうし、沢井の味方でいた、白いピケ帽子の祖父はどうしても小津に重なる。自転車二人乗りは『キッズ・リターン』のようでこれも絵になる。おそらく母親の趣味だろう、ファンシーな装飾でまとめられた室内に貼られた、アウグスト・ザンダー?の結婚式の写真と梢の撮るポラロイド写真。弓子の台詞「あなた、わたしを生きなかったわね」は北村太郎の詩集『冬の当直』に出てくるフレーズだ。死期の迫った肺病の男が子どもを守るのは『グラン・トリノ』のコワルスキーにどこか重なる。ラストに差し掛かってセピア色の画面が色彩を回復するのを「ダサイ」と、その昔浅田彰は書いたが、洗練の方向にはゆかず、スタイリッシュにも陥らない、誤解を恐れずにいえば、いい意味で愚鈍というか、野暮なほどまっすぐなところこそが、青山真治の魅力ではなかったか。それをいまここでは「純な心」(フローベール)といっておこうか。旋回するカメラ、カセットテープも回る、利重剛役所広司も背中合わせに回る。The Music Goes 'Round and 'Round.

西部劇さながらのロングショット。「画面を横切る一本の真っ直ぐな線」「一本の線を必ずどこかに残しながら撮っている」とは、蓮實重彦氏が『週刊読書人』の対談で言っていたことだ。

兄妹の寝姿に被さる光と影のさざなみ、その白と黒のコントラストはフィルム・ノワールのようでもあるが、あれはやはりジャン・ヴィゴアタラント号』なのか。成瀬巳喜男の『歌行燈』の木漏れ日も思い起こさせる。

トラウマを抱えているのは3人とも同じなのに、宮崎あおい演じる梢の心の傷はさほど描かれず、かの女だけが強く達観していて、女性讃美的な面もある。あれは『夜ごとの夢』の栗島すみ子なのか。あるいは、溝口映画の山田五十鈴なのか。

何を描いて、何を描かないか。そのあたりの潔さが凡作とは一線を画している。セリフや物語で説明はしない、あくまで画の力強さで押す。モーション・ピクチュアはこうでなければ。

宮崎将はクーリンチェの少年に似ていた。セイタカアワダチソウのような背の高い雑草が生い茂るなかの横顔のショット、ナイフで切れば植物の白い髄液が断面からあふれでる。そのはっとするような残酷な美しさに、彼はカメラを向ける。

受け手の共感を引き出す意図で、なんでも伏線回収!(例:『花束みたいな恋をした』)というような昨今のわかりやすさからは遥かに遠く離れて、わからないものはそのまま謎として置き去りにされる。そのことの豊かさ、贅沢さ。正解のかわりにながい余韻がある。海に入水する梢はまるで『山椒大夫』の香川京子のようだ。梢の眼を通して、直樹に海を見せるところに、青山真治の優しさを見て、すこし涙が出た。「あなたの目になりたい」(サッシャ・ギトリ)。

SNSで垣間見る彼は皮肉屋で意地悪な印象もあったが、優しい人だったのだ、きっと。しかし、こんな映画を作っていたのだから、青山真治はなんて孤独だったのだろう。その孤独の深さを思う。

《走って行く子供たち》(牛腸茂雄SELF AND OTHERS』(未来社)所収)

 

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靄なのか、それとも霧がたちこめているのか、光をまとった微細な粒子があたりいちめんを覆うなか、石灰の線が引かれた芝生の上を子どもたちが光に向かって駆けてゆく。はじめてこの写真を表紙に見た時、これは彼岸の光景なのかと思った。どこかこの世のものではないような、それでいて、親密さもそなえた不思議な雰囲気。書店や古書店に行くたびに手にとってぱらぱらと眺めては書棚に戻し、また手にとっては棚に戻すということを何年も繰りかえしたのち、やっとある日、意を決してこの写真集を新刊書店で買った。

あらためてキャプションを読んでみると、この写真が撮られたのは、子どもの頃に数年間通ったことのある、座間キャンプの独立記念日の花火の夜なのだった。

幼い頃のケイト・グリーナウェイの絵本や岩波少年文庫のメアリー・ポピンズからはじまり、欧米文化につよくあこがれていた子どもは、年に一度だけ部外者も立ち入りが許されるこの独立記念日の花火大会の日をそれはそれはたのしみにしていた。厚木基地の飛行訓練の騒音は毎日すさまじくて、飛行機が頭上を通るたびに両耳を覆うようなひどい日常だったにもかかわらず、子どものなかでは、あこがれの炎は消えず、それはそれ、これはこれ、だった。オサムグッズのセルロイドの筆箱を持って小学校へ通い、家ではノーマン・ロックウェルの画集を眺めたり、母が通販で買ってくれた「アメリカン・ヒット・ポップス」のカセット全集などを聴いて暮らしていたローティーンの頃。青と赤の縞のきゃしゃな薄い封筒が届くのが嬉しくて、海外に同い年くらいの文通の友までいた。かの女たちは今ごろ何をしているのだろう。

 この写真がながいあいだずっと気に掛かって、つよく惹かれていた理由が遅ればせながらやっとわかった。これはたぶんわたしのよく見知った光景なのだった。あれほどたのしみにしていた花火の夜を写した、という極めて個人的な理由で、この写真をおさめた写真集は忘れられない一冊。

祖母の家

  家の鏡台には、資生堂ドルックスのクリームや乳液やらがところせましと並んでいた。鼻を掠めるそれらの入り混じった重い粘性の匂い。山名文夫の曲線が優美な唐草模様の意匠は、だから幼いころからなじみがあった。父方の祖母はおしゃれだった。色彩感覚にすぐれていて、じぶんに似合う色を知っていた。白髪になってからは、よく薄紫やエメラルド・グリーンのニットを着ていて、とてもよく似合っていた。洋服や化粧品、買い物、美食つまり贅沢を好み、池袋の東武百貨店を根城にして開店から閉店までそこにいた。池袋の東武というのは、住んでいたのが西武池袋沿線の学園都市の駅だったことと、北関東出身の人だったから東武という路線になじみがあったのだと思う。母によると、百貨店でその日出会った人とお茶を飲んだりして、日がなウィンドーショッピングをしていたそうだ。

  宇都宮の郊外のお金持ちの末っ子として、庭にカナリアのいる鳥籠をかけているようなモダンな家に住み、乳母に「お嬢様」と甘やかされてわがままいっぱいに育った。幼いころ、片岡千恵蔵の前で踊りを披露したことをずっと自慢と誇りにしていた。子どもには「チエゾウ」がどんな人なのかはよくわからなかったが、それはそれは綺麗だったのよ、とよく聞かされた。後年、旧い日本映画をよく観るようになってから、千恵蔵が祖母の言うとおり「それはそれは綺麗」な人だということを知った。整理整頓ということがいっさいできない人で、百貨店で山のように洋服や着物を買うだけ買って満足して、それらを二階のタンスの引き出しや茶箱に滅茶苦茶に仕舞っていた。まるで泥棒が入ったような光景だった。

  長男だった父のことはたいへんに贔屓して可愛がり、次男のおじさんにはあまり目をかけなかった。おじさんは、すっとんきょうな声で、いつもおかしなことばかり喋るお調子もので、斜に構えてひねこびた子どものようなところがある人だったが、ながい睫毛の下で黒目がちの瞳がいつもきらきらと輝いていて、純粋な魂を持っていた。若い頃は都の西北に通う演劇青年だった。屋根裏の小部屋には、おじさんの蔵書だったとおぼしき、イプセン『人形の家』の文庫本――新潮文庫だったか、岩波文庫だったか、頁は日に焼けて四隅に向かって白茶けており、薄茶の小さな無数のしみがその上を走っていた――がころがったままになっていた。子どもは祖母の家に行くと屋根裏の小部屋にじっとこもることを好んだから、まもなくそのびっしり活字の詰まったざらついた頁を繰ることになり、「ノラ」という名前に不思議な感覚をおぼえた。ノラ、だって。のら猫みたい、と子どもは思った。

  おじさんは若くして脳溢血で亡くなった。休日にひとりで散歩に出かけた先の喫茶店のトイレで倒れたのだ。鼻に管を入れられて植物状態でしばらく生かされたあとでおじさんが亡くなったとき、父は「おふくろのせいだ」とぽつりとつぶやいた。祖母は父の娘で初孫であるわたしをいちばんにかわいがったが、弟やおじさんの娘のいとこについては、わたしほどにはかわいがらなかった。それは子どもから見ても歴然とした差別的な態度だった。旅行先でお土産を買ってきてくれるのだが、わたしには「はい、これはMちゃんの」といって渡してくれたが、弟にはなかった。「Rくんにはいいのがなかったから」と祖母は平然と言い放った。そのときの弟の悲しそうな顔が忘れられないと母はいった。

 わがままいっぱいに育った祖母は、父が中学生のときに離婚をして、祖父と再婚した。祖父は最後までとらえどころのない人だったが、若い頃の写真を見ると、鼻筋がすっととおった上原謙そっくりの美貌だった。戦場でも戦線には立たず、給仕班のような立場で兵士の身のまわりの世話をしていたそうだ。美貌のせいでお稚児さんのように扱われていたのだろうか。うわべはやさしい祖父だったが、どういう人なのかは結局のところわからないままだった。最初の結婚で授かった子どもを5歳で亡くし、心の闇を抱えたまま余生を過ごしているようにも見えたが、生前は何もそのことについて語らなかった。5歳の子どもの墓、というのは、どのような大きさなのだろうか、と子どもは思った。気の毒な人だった。各駅停車しか停まらない駅で、小さな米屋をいとなんでいたから、家にはいつもタケダのプラッシーキリンレモンの瓶が常備されていて、子どもはそれが嬉しかった。瓶のキリンレモンは缶とは違うおいしさだった。祖父は刺身に味の素をかけて食べるひとだった。いや、なんにでも味の素を振りかけて食べていた。いつのまにか食卓から消えた味の素。祖父は味の素信仰の人だった。

 

祖母の家

まゆみの生垣で覆われた庭をとおって、玄関の引き戸をがらがらと開ける。その木造の小さな家は、障がいをもつ娘と二人で暮らす親戚のおばさんの家と接していて、猫の額くらいの湿った庭しかなかった。日中でもあまり陽の光りの差さない暗い居間、奥に置かれていたブラウン管の小さなテレビではいつも絞ったヴォリュームで相撲中継がかかっていた記憶がある。隆の里の地味なまわしの色とのっぺりした餅のように白い肌。顔立ちも目が細くて地味だった。物心ついてからはじめて名前をしっかり記憶した力士だったが、なんとなく幸が薄いというのか、大きな背中に悲しみを背負ったようなお相撲さんだな、と子どもごころに思っていた。なぜか、祖母の家の思い出は、安岡章太郎『海辺の光景』とセットになっている。クリーム色の表紙の新潮文庫。といっても『海辺の光景』がどんな小説だったのか今はもう思い出せない。

海への散歩の帰り道、駅前の商店街に立ち寄って、祖父は高価な(と、子どもはその時思った)バービー人形を買ってくれた。桃色のフリルやレースが施された舞踏会で着るようなドレスを身につけたゴム人形。日本製の背の低いリカちゃん人形とは違い、黒目がちの輝く大きな瞳をしたバービーは、スタイルが良く背もすらりとしていて足が長かった。舶来の香りがした。おしゃれで清潔だった祖父。白いピケ帽子をかむり、白のキュロットパンツ、ハイソックスも白だった。生粋のハマっ子で啖呵を切るようなべらんめえ口調があざやかだった。ワインレッド色の車に乗っていた。大人になって、小津安二郎の映画を観るようになってから、そういえば、喋り方やおしゃれなところが祖父にちょっと似ているな、と思った。逗子鎌倉の香りもあったかもしれない。

夏休みに遊びに行くときまって冷蔵庫から出してくれる、祖母のつくるすいかのジュースは水っぽくて不味かった。祖母はあまり料理が上手ではなかったように思う。それでも孫が遊びに来ると、ホタテ貝のフライをよくつくってくれて、それだけはおいしかった。正月に煮る黒豆にはかならず真っ赤なチョロギが入っていた。後年、澁澤龍彦のエッセイにチョロギがでてくるのを読んだときは、祖母の黒豆を思い出したものだ。本ばかり読んでいる文学少女だったから、祖父と結婚した当初、お姑さんに「本ばかり読んで」と小言を言われたけれど、祖母の母親は「本ぐらい自由に読ませてやったって、いいではないですか」と言い返したそうだ。

居間の大きな机には、テーブルクロスの上にさらに分厚い合成ビニールのカバーがかかっていた。夏など汗ばんだ裸の腕にそのビニールがぴったりはりついて、あまり気分のよいものではなかった。ところどころ、台布巾で拭いてもとれない、経年のしみのようなものがついていた。便所はまだ汲み取り式で、暗い穴をのぞくと落ちそうでなんとも怖かった。誰かが下から足をひっぱるのではないかと恐れおののいた。狭くて暗い鳶色の階段をみしみしと鳴らしながら登ると、二階には祖母の小さな文机が置かれていた。壁には祖母の詠んだ短歌が飾ってあり、エリカという花をはじめて知った。エリカ、リラ、よく知らないけれど美しい花の名。幼いものにとって、家に遊びにゆくたびにそれらの歌を眺めることは無意識のうちに文学への淡い憧れを掻き立てた。それにまだ、昔の鎌倉の小町通りはあんなに混雑していなかった。祖母とふたりでぶらぶらと通りを散策して、駅にほど近いガラス細工の店で群青色のガラス玉を買ってもらった。日にかざすと虹のプリズムをつくるのを飽かず眺めた。ニュージャーマンのカスタード・クリームの入ったお菓子。それから、八幡様のちかくのお好み焼き屋。祖母は会うといつもじぶんが少女だった頃の「少女の友」の話をしてくれた。何度も同じ話をした。クラスの友達がみんな持っていた「少女の友」を読みたくて読みたくて、でも、家では講談社の「少女倶楽部」を買い与えられて、わたしが読みたいのは「少女の友」のほうなのに、と。

 

郡さんは、まずひとりの読者として書物に向き合う姿勢や理念、それと、身銭を切って買って読むことの大切さの話をしているのに、そこはまったく話題にもならずに回避され、「クッキー」「フリマ」という言葉のみが切り取られ(確かに、誤解を受けても仕方がない部分がなかったとは言い難いが、意図としては、趣味で作ったクッキーをフリマで売るようなアマチュアとしてではなく、プロフェッショナルな出版人としての覚悟を問うリプライだったとわたしは思う)「性差別」という誤ったレッテルを貼られ、ミスリードされた。そして、叩く対象を日々探している匿名アカウントの自称「フェミニスト」(かの女たちの言葉の汚さには唖然とさせられるばかり)やその他大多数の者が前後の文章を読みもせず、或いは、ミスリードを意図的に行い、嬉々として「炎上」に加担した。

その発言の前に、くだんの女性編集者は、編集者は「狭い出版村」の「田吾作同士」で、本は「オラのイモ」という言葉で表現しているのに、である。そこは誰も何も言わない・言えない出版業界のいびつさ。みんな黙っている。おかしいのでは?と声を上げているのは、無名の読者だけ。人文書の編集者にこのような劣化した言語感覚の持ち主がいることに暗澹たるおもい。何より恐ろしいと思うのは、他者や死者や過去の書物に対する敬意がまったく感じられないことだ。心ある編集者のみなさんは、あなたたちが心を込めてつくっている本が「オラのイモ」呼ばわりされても、何も感じないのですか? それとも、そんな理念などという青臭いものにはとうの昔にさよならして、本など所詮はたんなる商品としか考えていないのでしょうか?

Twitterでは学者、研究者、関係者(献本してもらう人)と出版社、編集者(献本する人)による「献本を紹介して何が悪いの?」という反応しかほとんど見られず、ほんとうにがっかりした。一般の読者へのまなざしがそこにはない。

結局、版元や編集者は著者しか見ておらず、著者もお互い関係者のあいだで献本されて当然だ、みたいに思っているのだろう。(大手)版元の編集者は著者をはじめとする関係者のことしか見ていないというのは、以前、別の編集者のツイートからも感じたことだ。彼らは出版行為という営みが、何よりもまず無名の読者によって支えられていることに思いをいたすことがない。内輪の馴れ合いで済ませてしまっているように見受けられる。「公共圏」とは何なのか? まさにその現状に一石を投じるべく、郡さんは「公共圏」という言葉を持ち出して批判しているのに。唯一、フィルム・アーキビスト常石史子さんだけが郡さんの言わんとすることを的確に捉えておられて、慰められた。わたしがいちばんNFCに通っていた2007〜2008年頃、田中眞澄さんとは選ぶ席が似ていて、よく通路を挟んだ隣で映画を観たことを思い出した。

追記

郡さんは献本それ自体が悪いことだと言っているわけではない。ご恵贈賜りましたの一言で片付けるのは、本に対して失礼だろうということだと思う。