しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


五所平之助『マダムと女房』(1931、松竹蒲田)


「日本映画史上初のトーキー」としてその名前だけは矢鱈に文献などで目にすることも多かったのに、どうもぼんやりとしていてフィルムセンターでの上映も何度か見逃し続けていて、ようやっと念願かなって本日、かなり劣化しているヴィデオだけれども、鑑賞することに相成った。のだけれど、結果的に20-30年代モダンに首っ丈な今の気分にこんなにもぴったりな映画だったので、何ともタイミングがよろしいなあ!とほくほく、そして、にやにや。やっぱり北村小松の脚本は期待通りにえらくモダンで嬉しくなる。


ストーリーは至ってたわいのない松竹蒲田お得意の小市民喜劇。主人公の遅筆の劇作家(渡辺篤)がその女房(田中絹代)と子供たちとともに、静かな郊外へ引っ越してくるのだが、子供たちは夜泣きをするし、それが収まったら今度は近所のどら猫が鳴いたり、となかなか筆が進まない。そこへ隣の家の騒音が加わり、どうにもこうにも執筆がはかどらず「静かにしてくれ」と文句を言いに行くと、「あら、先生、どうぞお入りになって!」と腕をむき出しにした縞模様のワンピース姿の断髪洋装マダム(伊達里子)に誘われるがままジャズバンドの演奏とマダムの唄を聞くハメになってしまう。最後にはすっかりジャズ(サトウ・ハチローが手がけた『スピード時代』『スピード・ホイ』)に酔いしれ「これからはスピードだ!」といい気分で帰宅すると、女房の田中絹代は「お隣で何してたのよ!」と嫉妬に玉簪をへし曲げて原稿用紙の上にこれ見よがしに置き、「エロ!」「あなた、私にも洋服買って頂戴!」と言ったりする。しかし、遅々として進まなかった原稿はジャズのリズムのおかげで急にスピード・アップして目出たし、目出たし。後日、家族4人で仲良く散歩に出かけると、お隣から今度は二村定一『青空』のメロディ(!)が聞こえてくる。「出会った頃を思い出すわねえ」と二人にっこり微笑んで、曲をハミングしながら歩き出す。すると、上空からヒコーキのエンジン音が聞こえてくる。見上げて「ヒコーキに乗って大阪へ行きたいわ」と田中絹代がにっこり微笑む。


「おっ!」と思ったことをいくつか。まず、劇中で演奏されるジャズソング『スピード時代』『スピード・ホイ』がどちらも人懐っこいメロディでとても良い。『スピード・ホイ』の方はどことなくメロディが『青空』に似ている。音楽家の一人はタップまで披露している、マダムの娘役で渡辺篤に色目を使う井上雪子が可愛い。それから、演奏の中でどうもこれは聞き覚えのある曲だなあと思って、あとでCDで確かめてみたら『ブロードウェイ・メモリー』だった!知っている曲なので、わー、と一気に脈が上がる。部屋の壁には”Madame X"のポスターが貼ってあるのが見える。調べてみたら、ルース・チャタートンが出演している1929年のライオネル・バリモア監督作品だった。深尾須磨子『マダムXの春』はここから来ているのかな。それから「新しいクラブ歯磨が置いてあるでしょ」と言う田中絹代。わー、中山太陽堂だプラトン社だ!とこれまた喜ぶ。


ラストシーンで、田中絹代は洋装とまではいかなくともどことなく洒落た雰囲気の着物にショールを羽織り、髪型も日本髪から「耳かくし」へと変わっている。伊達里子の断髪にノースリーヴ・ワンピースのお色気モダンガールとまではいかなくとも、ほんの少しだけモダンに変身しているという匙加減が何とも可愛いらしい。なんだかまだ目も腫れぼったくて輪郭も下膨れだし、のちの大女優としての片鱗はあまり見えないけれど、大層初々しくてこの頃の田中絹代はいいナアと思う。


それにしても、最後にはヒコーキまで登場させてしまうという、北村小松のセンスはほんとに最先端だったんだなあ、というより単に新しもの好きのモボだったのか。20世紀初頭の未来派からはじまって、スピードや機械美にまだまだ酔いしれていられる、幸福で楽天的な時代の映画というのを象徴しているかのようで大へん興味深い。全く何も関係ないのだけれど、何故だかスティーヴン・ミルハウザー『マーティン・ドレスラーの夢』を思い出してしまう。さあ、これから時代が動いてゆくという時の高揚感。