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しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

光の束、緑の層


小さな緑色の石を受け取ってから、青山ブックセンターへ。『本の島』発刊記念ということで、吉増剛造×堀江敏幸のトークイベントがあり、それを聴きに行った。昨年の秋に知り合ったばかりというのに、どこか懐かしい感じのするnさんとのつながりができたから。


わたしは本づくりの仕事をしているわけではないし、だいたいにおいてぼんやりしているので、津田新吾さんというそんなに素晴らしい編集者がいたとは亡くなる前まで知らなかった。ただ、津田さんによって世に送り出された書物のリストを見たら、津田新吾さんとは、堀江敏幸『おぱらばん』『魔法の石板――ジョルジュ・ペロスの方へ』、多和田葉子『容疑者の夜行列車』『アメリカ――非道の大陸』、ジャン・ルノワール『ジョルジュ大尉の手帳』野崎歓訳、前田英樹セザンヌ 画家のメチエ』など、知らず識らずうちの書棚にも並んでいる本をつくった方なのだった。「ああ、あの本も、この本もそうだったのか」という思いはある。それから、このリストを書き写しながら、そういえば、2006年11月15日に東大駒場キャンパスで行われた「翻訳の詩学 エクソフォニーを求めて」(多和田葉子柴田元幸野崎歓小野正嗣)にわたしも参加して、刊行されたばかりだった多和田葉子『アメリカ――非道の大陸』を携えていったことを思いだした(id:el-sur:20061121)。会場にはもしかしたら津田さんもいらしていたのかな。


途中で挿まれたgozoCineの断片のこともあって、少し眩暈のような船酔いをしたような疲れが残る濃密な二時間だった。話を聴くのは二度目のことだけれど、吉増さんのもっている時間の流れかたはとても独特なので、観ているこちらものまれてしまうような感覚がある。昨年のちょうどこれも五月の末頃だったか、神楽坂で開催された「折口信夫会」の時もそうだった、というのを一年ぶりに思い出した。


記憶と意識の層が折りかなさって沈殿してゆき、層の一部分がある瞬間ふっと光に曝されて、その光のあたる場所から言葉の破片が泉のように溢れ湧きでる。薄くて平たい鳥の翅、あるいはもっと微細な塵の粒子のようなもの、そう、まるで吉増さんの判読不能なほど小さな文字でびっしり書かれた原稿を思わせる――が降り積もって増殖してゆく感覚。鉱脈に行きあたったような、何か不思議な光るものに出逢っているという感覚。吉増剛造その人と時間を共有するたびにそれを感じる。『本の島』や津田新吾さんにとどまらず、藤原定家吉本隆明道元フッサールetc,etcと話があちこちに飛ぶさまを驚きをもって眺めながら、ふと、折口が弟子たちを前にしてつらつらと喋っていたのもこんな雰囲気だったのかな、と思ったりもした。違うかも知れないけれど。


ほんとうのことを言うと、話のあいだも、いや、はじまる前からも、吉増さんの足許に無造作とも言える感じで置かれている、大きなバインダーに挟まれたしゃりしゃりと清音のする(こんなふうに楽器にもなる、と振ってみせてくださった)原稿の束から目をそらすことができなかったのだ。層が折りかさなって沈殿してゆく...なんてことに思いを巡らせてしまったのは、それ自体で光を発しているかのような精緻な言葉の層を不意に目撃してしまったからなのかも知れない。おびただしい付箋がつけられている。日付のスタンプも押されている。グラデーションになったインクのしみ、色彩の生地。遠目から見ると絵画作品のようで、大判の原稿用紙に小さな赤い文字で書かれた部分と若草色に塗られた部分とが互い違いに置かれている。とても美しい縞模様、ベーコン層...とふと思い出すのはまったく関係のないドナルド・エヴァンズの描いた切手。


トークが終わった後、皆で吸い寄せられるように原稿の束をぐるり囲んで間近で観察することとなった。吉増さんは「この緑色の部分に書いたのは吉本隆明詩篇の引用です」とおっしゃる、「いいんですよお、だーれも注目していないけどね」とも。原稿用紙の赤い線の縁の部分をなぜか白い修正液でひとつずつ消されているので、不思議に思って思わず無言でひとつひとつを指差してしまう。すると、吉増さんは「これ、嫌でしょう、嫌だから全部消してるの」とおっしゃった。その白いつらなりは星座ではないのでしょうか?とはもちろん発語しなかった。ただ、吉増さんも縁をあいまいにしたいという好みを持った方なんだなということがわかって、心の中でにっと微笑みかけたくなった。海やまのあいだ、海と空とをへだてないで、そのあわいをゆくこと。縁に寄り添うようにして世界を描く人。でも、どこか怖いような気もする。その灰色がかった美しい眼がふとした瞬間にとても鋭く(猛禽類のように!)厳しく光ることがあるのを知っているから。それは詩人の言葉にたいする厳しさからくるものなのだと思うけれど。


そういえば、堀江敏幸さんも、自分の本は分類されないような、どこにも入らないような本をと思って書いているとおっしゃっていた。たしかに『おぱらばん』をはじめて読んだときには、小説ともエッセイともつかぬなんとも不思議な感覚があって、これはおもしろい書き手が出てきた、と思ったものだ。堀江敏幸の本は多和田葉子とともに一時期すいぶんと熱心に読んだのだけれど、そのうちに気がつくと押しも押されぬ人気作家になってしまったので、ひねくれ者のわたしは次々に刊行される書きものからしだいに遠ざかるようになり、もうすこしひそやかな、あまり目立たない書き手のものに注意を向けるようになった。今回、『本の島』で久しぶりに堀江さんの書きものを読んで、やっぱり堀江さんの散文はいいなあと堪能したのだった。吉増さんの玻璃のある言葉のように尖ってはいないけれど、このどこか苦いユーモアの感じは、読んでいてひじょうに心地よい散文の魅力に溢れている。文章がよいのでお茶でも淹れて安心して読めるのも嬉しい。


『本の島』vol.1より、堀江敏幸「言葉の護衛兵を本の島に送り込む(前)」。文中に、レオン・ポール=ファルグの名前が出てきて「おお!」と思う。そういえば、堀江敏幸訳でファルグの『パリの散歩者』を読みたいとずっと思っているのだけれど。白水社みすず書房あたりで出してくれないかしら。