しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

続・橋本平八とその時代――表現主義をめぐって


『MADAME BLANCHE』の全17号が収録されるというので楽しみに待っていた『コレクション・都市モダニズム詩誌 第13巻 アルクイユクラブの構想』*1をいそいそと図書館で閲覧してきた。いちばんのお目当ては橋本平八の二本の文章「原始精神に就て」(第12号/1933年12月)と「魔」(第15号/1934年4月)である。これも毎度同じことをぼやいているような気もするけれども、橋本平八のコスモスに向き合おうとするには相当にうんうん唸って真剣に考えなければならないという印象で、ただでさえいつもぼんやり頭なのに、さらに二週間も長引かせている風邪が抜けずにすべては靄の彼方という頭でもって、一読して「こりゃ今はちょっと無理だ」と脇にのけてしまっている。モダニズム詩を読むように、どちらかというとイメージと感覚で文章に接しようとする傾向のあるわたしのような読み方では、深い精神性を内に秘めそれを一種の哲学まで昇華させている平八の書きものはとても手強くて歯が立たないような気がするのだ。とりあえず気を取り直して、先に『純粋彫刻論』(昭森社、1942年)を一通り読んでからにしようと思う。もっとも、読んだからとて理解できる保証はないのだけれど.....。


橋本平八と表現主義の受容について考える上で、当時の最先端の海外芸術がどのように日本で紹介されていたかを調べていたら、建築専門出版の洪洋社から『建築写真類聚』第5期 第1(建築写真類聚刊行会編/1925年4月)として「表現主義の彫刻」という本が刊行されているのに行き当たった。これは国会図書館の「近代デジタルライブラリー」にて全頁閲覧可能であるが、中身を見てみると、エルンスト・バルラハやフリッツ・ヘーゲル、ゲオルグ・コルベなどの図版が白黒写真ながら掲載された図録になっている。この図録を眺めていて、特に平八作品に肌合いが似ているなあとぴんと来て気になったのは、エルンスト・バルラハの作品であった。それで、キルヒナーの次はバルラハだ!という訳で、今度はエルンスト・バルラハを調べに書庫へ降りて行くのであった。


バルラハについては、2006年に開催された展覧会《ドイツ表現主義の彫刻家―エルンスト・バルラハ》(京都国立近代美術館東京藝術大学大学美術館ほか)の図録で詳しく知ることができる。(写真右下:エルンスト・バルラハ《歌う男》1928年


収載されている京都国立近代美術館の池田祐子氏の論考*2によると、古代エジプト美術を中心にドイツで学んだ美術評論家一氏義良がその著作『西洋美術の知識』(1925年)の中で、表現派と表現主義の彫刻の特性について触れた後、バルラハをレームブルックとの対比で代表的な彫刻家として紹介しているという。


この本の引用を読んでいておもしろいなと思ったのは、レームブルックの特徴を「ギリシアのテクニックを加味して材料と題材を主観的に駆使する」「物の外部の美しさを彫刻しようとする」としているのに対し、バルラハを「内から緊張しておのづからほとばしり出そうとする力量を表現している」「この人も同じくゴシックから来るけれども、さらに男性的で厳粛な宗教感とでもいふべきものが、颯爽と躍動している」としていることだ。


「内から緊張しておのづからほとばしり出そうとする力量を表現している」とは、何と橋本平八の造り出す作品群にしっくりくることか、と、2010年の《橋本平八と北園克衛展》を通過した今となっては強くそう感じる。


また、先に紹介した(id:el-sur:20101212)同著者の『立体派・未来派・表現派』(アルス、1924年)には、バルラハの《刀をぬく人》(1911年)の図版が添えられていた、ということもこの論考を読んで知った。1924年は、平八が日本美術院の院友になった年で、10月28日付の読売新聞には「院友決定」として橋本平八の名が見える。略年譜によると、ちょうどこの日に「馬込の佐藤朝山宅を出る」とあり、新聞発表とともに即日師匠の家を出るという平八の行動がいかにも「奇人・橋本平八」*3の面目躍如という感じがしておもしろい。(写真左下:橋本平八《俳聖一茶》1935年)


いっぽう、弟の北園克衛に目を転じてみると、彼にとっても1924年はひとつのエポックとなる年だった。すなわち、日本画家の玉村善之助の家で野川孟とその弟の野川隆に出会い、彼らとの交遊のなかで海外の新興芸術運動に強く影響を受けた年であったからだ。その衝撃的な野川兄弟との出会いの中で、北園克衛は遡ること一年、彼らが前衛芸術雑誌『エポック』を刊行していたことを知っただろうし、その『エポック』の1923年2月特別号は「立体派・未来派・表現派」と題された絵画の図版集で、原色版2頁を含むベックマン、シャガールカンディンスキー、クレー、ブランクーシピカソデ・キリコ、ペヒシュタイン、また表現主義映画『朝から夜中まで』のスチール写真5枚などの作品が収録された。そういったじじつをふまえるならば、彼が海外の前衛芸術運動を紹介した一氏義良の『立体派・未来派・表現派』(アルス、1924年)を逆に読まなかったと考えるほうが不自然だ、とまで言い切れるのではないかと思う。そして、弟を経由して、仲が良かった兄の平八にその本が手渡されていたとしてもおかしくはない、とつい口を滑らせたくなってしまう。そして、当時の印刷技術で刷られた白黒の貧しい図版であったとしても、平八のごとき天才であったなら、バルラハの彫刻に宿る精神性を自らに近しいものとしてすぐに見抜いたのではないか.....いや、根拠のない憶測は慎まねばならない。でも、そんな想像を自由に巡らせてしまうひそやかな愉しみを、平八とバルラハの彫刻作品の近似性は物語っているかのようで、ますますもって興味は尽きない。

*1:ISBN:9784843328958

*2:池田祐子「彼方に揺れ動く芸術家 日本におけるバルラハ受容考」pp.236-241

*3:遠泳に出掛け七時間も泳ぎ続けて溺れ死にそうになったり、七日間の断食を敢行したりというまるで修行僧のようなエピソードがある。