しっぷ・あほうい!

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折口信夫尾崎翠のこと その2


「学校の後園に、あかしやの花が咲いて、生徒らの、めりやすのしやつを脱ぐ、爽やかな五月は来た。」(釋迢空「口ぶえ」)


「口ぶえ」という小説を読んで、折口信夫というか釋迢空と尾崎翠はつながるのではないか?と考えはじめてからさらに調べてみると、橋浦泰雄と『文章世界』というキイが浮かび上がってきた。



翠と同郷の画家にして民俗学者である橋浦泰雄という人物のことは、鶴見太郎橋浦泰雄伝 柳田学の大いなる伴走者』(晶文社、2000年)にて詳しく知った。橋浦は1950年の日本民俗学会にて、柳田邦男折口信夫とともに名誉会員に推されたほどの人物なのに、柳瀬正夢と絵を描き、有島武郎と知己になり、戦後は生協運動に身を投じるなど民俗学を逸脱してさまざまな個別の活動の場を持ったからだろうか、この二人に比較すると圧倒的に知名度が低い。



翠との関係でいうと、橋浦泰雄は1913年に召集のため鳥取に帰り、1914年まで岩本の家で過ごし、このあいだ弟の時雄と社会主義について論議していたという。これはちょうど翠が橋浦泰雄と前後するかたちで僧堂での独り暮らしをはじめて、次兄・哲郎の影響下に宗教誌や仏教書を読んでいた頃と重なるから、この時期の橋浦家と尾崎家は家族ぐるみで交わりがあったのではないかと推測される。その後、1922年に翠や湧島義博らと第二次『水脈』を発刊し、1926年の「鳥取無産県人会」発足時には、弟の橋浦時雄、生田春月、生田長江らと並んで翠もその発起人の一人として名を連ねたから、橋浦泰雄尾崎翠の関係はその間も途切れることなく続いていたことになる。1930年5月、橋浦と秋田雨雀、生田春月、翠は「文芸思潮講座」のために鳥取、米子、倉吉をまわり、翌月の6月1日〜3日まで鳥取商工奨励館にて開かれた「橋浦泰雄作品頒布会」(発起人:柳田邦男、秋田雨雀白井喬二、野村愛正)では、翠も一品購入している。この数年分の頒布会の名簿を眺めていると、1929年5月に信州松本で開かれた個人展の発起人の中に、柳田邦男や秋田雨雀と並んで、折口信夫の名前が見えるのが興味深い。その縁で折口信夫尾崎翠が実際に面識があったとまでは言わないが、少なくとも紙の上では二人は出逢っていると言っていいのではないだろうか。



それから、折口信夫尾崎翠とを、さらにつなげるもうひとつの可能性は『文章世界』である。田山花袋主宰の『文章世界』には、折口が最初の歌の師とした服部躬治やその妹水野仙子(彼女はまた河合酔名主宰の『女子文壇』の投稿家でもあった、これも翠と同じ)の歌が掲載されており、実際、折口信夫が影響を受けたとされる岩野泡鳴「悲痛の哲理」が掲載されたのは1910年1月号の『文章世界』であったから、折口は『文章世界』の読者であったといえる。年譜によると、翠が『文章世界』や『女子文壇』の購読をはじめた時期は1913年で、投稿をはじめたのは1914年〜1916年のことだそうだから、そのあいだに釋迢空こと折口信夫尾崎翠の投稿作品「青いくし」(1914年8月号/加納作次郎選)や短歌「つかの間の帯をしとけば夏の海うれしく光り肌は白くも」(1914年11月号/土岐哀果選)「朝」(1915年3月号)を読んでいたかも知れないな、などと想像するのは愉しい。



そして、折口信夫尾崎翠を語る時にいちばん心に引っかかっていることが、ふたりの歩行と境界、それらとともにある風や息などのことだ。こんなことをつらつら思い巡らしたのは、吉増剛造『生涯は夢の中径 折口信夫と歩行』(思潮社、1999年)という、たいそう美しい書物を読んでいたから。



折口の発した不思議な言葉が音の記憶として詩人の頭のなかに散り積もって記憶の粒子となり、それが呼気と吸気とともに大気中に吐き出され、風にのってそこここに霞のように漂っているさまをあらわした――吉増さんはまるでしゃあぷ氏のような「気体詩人」なのだ!――ようなこの本は、「折口さん、――」と呼びかけて、その幽かな韻律も聞き漏らすまいと耳をそばだてて応答を待つかのようにしてなされた、折口の呼吸と波動に寄り添った詩的交感のいとなみの記録であり、時空を超えたコレスポンデンスなのだと思う。



折口が書物のうえに残した痕跡――彼の言葉に対する「くらい熱情のひかり」(p.95)を思うと、痕跡という言葉を使いたくなるのだが――は身体をつうじて音韻となって新たに生を受け風に舞う。吉増剛造のこの本を読んでいるとそんな気がしてくる。いや、折口の身体から音韻として発された言葉は弟子たちによって口述筆記されたのちに紙の上に書き付けられるのだから、ほんとうは逆なのだ。それは確かにそうなのだけれども、何故か吉増さんの言葉を介すると、折口の不思議な言葉が紙の上を離れて塵のように細かくなり大気中にひそやかな粒子となって舞っているのを眺めているような気になってしまう。


夢幻的なるものと現実的なるものの境界が途絶えて、そう、幽かな光も”ほっ”と現れるような瞬間が、折口さんには非常な可能性として伏流しているのですね。(その瞬間がところどころでさかさまになる。往還が逆になる。この時の順逆の働きが、じつに細かなところにもうごいている。) (吉増剛造『生涯は夢の中径 折口信夫と歩行』)


いっぽう、翠については、近藤裕子がこんなふうに書いている。

「歩行」のなかに生きる人々はしばしば身体から小さな空気をもらす。お祖母さんは「炉の灰に向って吐息をつき、打ちしめった声で」心にかかることを語り、「私」も去ってしまった幸田当八氏を思いだして「しぜんと溜息を吐」いてしまう。ふうとはきだされる吐息やため息にのって、あるいは声という湿り気を帯びたふるえる息とともに、胸のうちの憂いや屈託はそっと外にもらされてゆく。


(中略)


歌は身体と天空をつなぐ風の通路だ。「私」の口辺を揺らす風のふるえは大気と混じりあい溶け合って、いつしかその境目をあいまいにしてゆく。(近藤裕子「儚くひそやかなるものへの親和」)

「ふう」という吐息や「ほう」という溜息は、音を得て歌となり風を内包してその境界をあいまいにする。折口信夫の第一歌集の書名は『海やまのあひだ』だ。この「海やまのあひだ」という言葉をはじめて目にした時も、わたしは尾崎翠鳥取の海と砂丘を隔てて/隔てないその境界のあわいを咄嗟にふと思い浮かべたのだった。そして、折口のそれと翠のそれは互いに共鳴するのではないかと。



ただ、折口と翠の歩行については、これは差異があると言わざるを得ない。風とともに歩みながら、片恋の面影を追い求めての漫歩や遊歩であった翠の歩行と比べて、折口のそれはまるで修行僧のように、己をぎりぎりまで追いつめたあまりにも切実で苦しいものであったから。折口のつらく「くらい熱情のひかり」が渦巻いているような歩行は、愛弟子のひとり加藤守雄が逃げるようにして故郷に帰ったのを追いかけ、途中で列車が止まってしまったのに、真夜中に一人線路伝いに15キロほどの道のりを灯りすら持たず黙々と歩み、流血し泥まみれになりながら加藤の家まで訪ねてきたという激情家としての一面が伺えるエピソードからも明らかなように、おもいを貫くためにはいかなる障害も乗り越えてしまう強靭な意志の力そのものだ。いや、むしろ折口の歩行は、苦行をすすんで享受しているようにさえうつる。「木犀」のお君ちゃんだったら、「妙なしとね」と言うだろうか......などと不謹慎なことを思って、ふっと笑いそうになる。



.......というようなことを、つらつらとあてもなく考えていた――彷徨していたのだが、上記で述べたことは結局のところ瑣末な事柄の積み重ねであるし、折口の小説にあらわれている「桐の花」「耳鳴り」というような単語も、それは翠というよりもむしろ北原白秋から来ていると見た方が正しいような気もするし、仮に類似するところがあったとしても、それは単に同時代性によるものでは?と一蹴されてしまうような気もするけれど、何しろ個人的な感覚から「ぴん」と来てしまったのだから仕方がない。



ともあれ、これからも尾崎翠のことを頭の隅に置きながら、折口信夫という深淵な存在に少しづつでも触れてゆきたい。無学の徒にだって折口を読む愉しみはあるのだ、と思いたい。