しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


またしても冨士原清一のこと


ある日。


まっさおさおの空の下、駒場公園で降りて日本近代文学館へゆく。文学館へ至る道に植わっている花水木の葉が赤と緑と褐色のグラデーションでとても美しくて、それを見ると何故かいつも「林檎の礼拝堂」を思い出してしまう。それに目の覚めるようなあの朱赤の実の何と愛らしいこと.....!前田邸をスケッチしている人々の前を砂利砂利踏みならしながら横切ってぐるりのベンチでエゴノキユリノキを見上げながらおにぎりを頬張り、頬張りながら水色のスモッグを着て山吹色の帽子をかむった子どもみたいに両足をぶらぶらさせたくなったが、恥ずかしいことだと思い直し止めた。


平日だから余計ひっそりしている近代文学館。奈良の爐書房が発行している『爐』という雑誌で、高橋新吉冨士原清一のことについて書いている。それを閲覧しに来た。わたしの勤め先の図書館は10円でコピー撮り放題であるが、近代文学館は何しろ一枚100円(!)なので、うす暗い閲覧室でせっせとノートに書き写す。それによると、高橋新吉冨士原清一を知ったのは、衣巻省三稲垣足穂の友人の石野重道を介してであったとのこと。この人は、『薔薇・魔術・学説』(冨士原清一・発行、北園克衛・編集)の創刊号にも顔を出している。冨士原清一はフランス語に堪能で、大島博光は頭が上がらず、中原中也のことも自分よりフランス語ができないのでバカにしていたという。

彼は酒が好きな点では中原と同じだったが、新宿などで酔っ払うと冨士原は靴を脱いで靴の中へ酒を入れて飲むのが得手だった。皺がれた声でマルセーズ(引用者註:ラ・マルセイエーズのことか?)を歌うのが癖だった。(中略)


此の間、池田克己詩集の出版会で、佐川英三君に逢って、冨士原の話が出て、大阪あたりの本屋が彼の詩集を出すと好いと語り合ったのだが、遺族の行方もはっきりしないので、探してみようと別れたが、冨士原はセルパンの編集をやっていた春山君の世話で第一書房へ勤めることになって、佐川君も一緒につとめていたことがあるのである。


冨士原の詩は、当時最も尖端的なもので、今持ち出しても独自な個性は類が無かろうと思う。(中略)寡作な方で、それも短い数行の詩を、一冊のノートに書き溜めているのを数年間も持っているのを自分は時々手にとってよんだことがあるが、題は「襤褸」としていた。(中略)


どこでどんな工合に戦死したか、くわしいことは知らぬが虚無の深淵を常にうかがっていた冨士原が人間くさい戦争を極度に軽蔑していた冨士原が遂に戦争の犠牲者の一人となったことは皮肉であり、キリストのいう神を嫌って、神よりも酒や女を愛した冨士原が太平洋の波の底に、今頃はどんな顔をして沈んでいるかと思うと、彼の美しかった眉目はそのままで、あまりしょげてもいないように思える。(中略)


それにしても襤褸の天子冨士原清一の詩集を出版したいものだ。大阪は再び煤煙の都となって栄えるとも、冨士原のような詩人が再び生まれることは臨めないからだ。(高橋新吉「詩論(五) 冨士原清一のこと」)


冨士原清一の詩のいくつかは、現在、鶴岡善久編『モダニズム詩集I』(思潮社、2003年)で読むことができるけれど、わたしは鶴岡善久が「シュールレアリスムに到達した」と評価する「魔法書或は我が祖先の宇宙学」よりも、初期の「めらんこりっく」「CAPRICCIO」「稀薄な窓」や、高橋新吉の言うように「襤褸」などの短詩が好きだ。それと、この思潮社版は詩のタイトルに誤植がある。『薔薇・魔術・学説』2年1号によると、本文のほうは確かに「稀な薄窓」という表記になっているのだが、目次を見ると「稀薄な窓」と記載が正しくされており、次号にあたる2年2号の編集後記には、「名物の誤植」として「稀な薄窓」が「稀薄な窓」と訂正されているのであるから、これは冨士原清一の名誉のためにも、詩人の言葉通り「稀薄な窓」と正しく表記をして欲しかったと思う。