しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


南天堂つれづれ



四月の終わりに、森まゆみ『断髪のモダンガール』と扉野良人『ボマルツォのどんぐり』を立て続けに読んでいたら、白山上の南天堂のことが出てきたので、ああ、そうだった、南天堂!といつものパタンでにわかに気になり出して、それからほどなくして、お酒のせいもあったけれどインテリの素敵な老婦人に向かって呪文のように「南天堂、南天堂」と口走ったら(何も知らない癖に......!)「あら、じゃあ今度アナキストの本を貸したげるわ。誰がいい?」と訊かれてしまったのであった。げに恥ずかしきは知ったかぶりなり。



そんな話はさておき、南天堂である。白山上の南天堂をはじめて知ったのは、もう数年も前のことで、何のことはない、当時勤めていた会社が都落ちをして銀座から白山に移ってきたからであった。白山には平凡社とそしてひっそり奢覇都館もあって、なかなかシブい本の街ふうなところもあるのだけれど、そうはいっても商店街はさして文化の香りがするわけでもない本当にごく普通の商店街で、坂を昇り切ったところを本郷通りの方へ折れるその中程に「南天堂書房」はあった。何しろ白山には書店というものがここしかなかったから、わたしはお昼休みにはほぼ毎日のようにこの「南天堂書房」に通った。しかし、悲しいかな、当時わたしは新居に引っ越しを控えていて、興味の対象といえば、ダイニングに置くためのアーコールの椅子だとか、アラビアのお皿だとか、麻のテーブルクロスだとかそんなものに日々の情熱を傾けているばかりで、お昼休みに本屋へゆく、と言ってもせいぜい『きょうの猫村さん』を立ち読みするか、文庫の新刊本をチェックするくらいで、店頭に平積みにしてあった赤と白と黒のモダンな装丁の分厚い本、寺島珠雄『南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和』(晧星社*1、1999年)*2を気になるなと思って一度は手に取ってみたものの、ぱらぱらと読んでみて「ふーん」と本を閉じ、その時は結局それっきりだった。だいたいわたしはぼんやりしているせいもあって、本との出会いのタイミングがいつも大幅に人より遅れてしまう。まあ、自分が読みたいと思った時がタイミングだと思えばそれでいいのかも知れないが.....。何年も前に出された本をはじめて読んでみたらもう素晴らしくって「これは!」と思っていそいそと感想文なぞ書いてみると、もう目利きの方々はとっくの昔に読了して立派な感想文を書いている、とかそんなのばかり。まあ、そんなどうでもいい話はさておき、南天堂である。



素敵な老婦人とお酒を飲んだ次の日、フラリと近所の素晴らしい古本屋に行ったら、入り口の一番手前に何年ぶりかの再会で、この本が棚に差してあったのだった。おお、今こそが私のタイミングなのだわ!と即決して、ギャラリー・オキュルス発行『W.W.W. 長すぎた男・短すぎた男・知りすぎた男 渡辺啓助渡辺温、渡辺濟「新青年」とモダニストの影』と一緒に買った。



立派な人名索引の付いたこの466ページにもなる大著の校正中に著者のアナキスト詩人・寺島珠雄は亡くなったのだという。あとがきが絶筆となった。わたしは南天堂はおろか、アナキストダダイストアヴァンギャルド詩人たちに関する知識があまりにも欠けており、ひとえに己の勉強不足のためにこの本に出てくる登場人物を上手く掴み切れないところがあったのだけれど、それでもこの本を面白く読んだ。というか、面白く、だなんていう軽い言葉でこの本について言及するのはあまりに敬意に欠けると言えるかもしれない。作者の「思い」いや、そんな柔らかい言葉よりも「気迫」という強い言葉を使った方が適切だと思えるほど、熱情がこの書物の行間のここかしこから刺さるように読み手に伝わってくる。このくらいの充実した魂のこもった凄い本が読めるのならば、新刊も捨てたもんじゃないとか思ってしまう(ってエラそうに!)。アナもボルもダダもシュルも居て、何でもありな破天荒な魅力に満ち溢れていた*3戦前のモダン都市・東京、白山上・南天堂という場に集い交錯していった人々の話は何故こんなにもわたしを惹き付けるのだろう。

*1:どこかで聞いた名前だと思ったら、無料(〜2008年3月)で「明治・大正・昭和前期雑誌記事データベース」を公開していた素晴らしい出版社!昨年の「英パンを探せ!」でもお世話になったなあ。

*2:isbn:9784774402680

*3:マヴォ』とほぼ同時期に刊行された『ゲエ・ギルギガム・プルルル・ギムゲム』なんていう凄い名前の実験的な誌の雑誌まであったという。