しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

及川道子『いばらの道』(紀元書房、昭和十年)



新青年叢書『渡辺温:嘘吐き(ラ・メデタ)の彗星 』のあとがきを読んでいたら、渡辺温の恋人だった及川道子*1による著作の引用が載っていたので、さっそく読んでみる。及川道子は大正十二年にドイツから帰国した土方与志による研究会に和田精に連れられて参加し、その翌年に小山内薫と土方与志により設立された築地小劇場に入り、山本安英などと一緒に舞台を踏んでいたが、たまたま舞台を見に来ていた『キネマ旬報』の内田岐三雄に見出されて、昭和四年の八月に松竹蒲田撮影所に入社した云々....というような話は岸松雄『人物・日本映画史I』(ダヴィッド社、昭和四十五年)で前に読んだことがあったけれども、驚いたのは松竹入りする前の話。当時、築地の舞台に出演しながら、家計を助けるために叔父が経営していた春秋社という出版社でも働くようになり、或る日、春秋社から出版されている中里介山の『大菩薩峠』を映画化するために、日活を辞めたばかりの伊藤大輔が社を訪ねて来た。伊藤大輔はお茶を運んで来た道子を一見してぜひ映画女優として使いたいと思ったのだという。結局、この時の映画化はお蔵入りとなったため及川道子の映画出演も幻となったが、その後の松竹蒲田での彼女の活躍ぶりを思えば、伊藤大輔の先見の明を指し示すエピソードとしておもしろい。

映画といふものに自分を結び付けて、直接に関心を持つやうになつたのは『大菩薩峠』が最初の機会であつたことは。前に書きましたが、伊藤さんは、映画女優としての私の素質を最初に認めてくださつた方として、私には忘れることの出来ない方です。

及川道子の記念すべき第一回出演作品は、菊池寛原作*2清水宏監督作品『不壊の白珠』(1929年)。姉の恋人を奪ってしまうモダンガールの妹・玲子役であったが、新聞連載を読みながら「耐へきれぬほどの嫌らしさと、激しい敵意をさへ感じていた」と文中にあるように、素顔の及川道子*3とは全く正反対の役柄であったようだ。いよいよ封切日となったその日、渡辺温が訪ねて来てくれて浅草の帝国館に一緒に観にいったのだという。

「道ちやん、『不壊の白珠』が、たうとう封切されますね。だけど道ちやんのことだから、自分の写真を見るのが恐ろしくて、まだ試写を見て居ないだらうね。これから一緒に見て来よう。」
そう云つて、渡辺さんは浅草の帝国館に誘つて下すつたので、私と妹の強子と、三人で出かけました。

続く第二回主演作『戀愛第一課』撮影時のエピソードの中には、蒲田きってのモボだった北村小松と待っていました英パン!こと岡田時彦の名前も出てくる。

これまでに私は、父母の許を離れて旅へ出たことなど、数へるほどより無かつたので、一日家を空けても、家庭のことばかり思ひ出されて仕方が無かつたのです。(中略)お夕飯が済んだ後、私は自分のお部屋で、窓辺に身を寄せて(中略)またしても東京の家のことを思ひ出して居ると、不意に、部屋の外の廊下に騒々しい物音が起つたと思ふと、いきなち、荒々しく襖を開けて、私の部屋の中へ闖入して来た者があつたのです。
「あらツ!」
驚いて振り返つた私は、思はず小さな叫び声を漏らしました。其処には私たちと一緒に船原へ原稿を書きに来て居られた北村小松先生と、私と今度の映画に主演して居られる岡田時彦さんの二人が立つて居られたのです。それだけならば、そんなに驚くこともないのですけれど、冬の最中といふのに麦藁帽子を冠り、赤鬼にやうに酔つ佛つた顔をして、ビール瓶だの、コップだの、其の他、何か妙なものを手に提げて、奇妙な身振りをして居られたのです。
「いよう、嬢氏!」
「愉快に、此処で騒がうぢやないか!」
二人の聲を聞くと同時に、たうとう我慢の出来なくなつた私は、思はず大きな聲で怒鳴りました。
「いけません!酔つ佛つて、無断でひとの部屋に入つて来るなんて、無作法なことがありますか。はやく此処から出て行つて下さい!」
北村先生と岡田さんは、余りに激しい私の剣幕に、半ば驚き、半ば呆れたといふ風に、暫く其の場に立ちつくして居られたが、間もなく、すごすごと部屋から出て行かれました。(中略)
けれども、其の直ぐ後で、その晩のことが、皆んな厚意から生まれた狂言だといふことを知つた時に、私は苦笑しながらも、あんなに怒鳴つたりしたことが、北村先生達にお気の毒に思はれたり、また何だか大人気ないことをしたような気がして、自分で自分が可笑しくもなりました。北村先生と岡田さんは、私が家のことばかり思ひ出して沈み込んでいるので、ひとつ笑はして、私の気分を引き立てようと、あんなおどけた真似をなさつたといふのです。

及川道子がいかに冗談の通じない生真面目さを持った浮いたところのない女の人だったかということがよく判る話ですが、Aパンも小松っちゃんもバカだわー(笑)。もっと人をよく見てやらなきゃダメよねえ、とか読みながら私も苦笑。



そんな話はさておき。



及川道子のこの本を読むと、いかに渡辺温が彼女を気遣っていたかがひしひしと伝わってきて心に沁み入る。築地小劇場時代に東京音楽学校の試験を受けに行った際にも渡辺温が一緒に付き添ってくれたというし、冬の最中に外套も買えないほど貧しかった彼女に、プラトン社『苦楽』の懸賞小説で得た賞金の一部で新しい外套まで買ってくれたのだという。一緒に試写を見た次の日に送って来た彼女宛の手紙の中には、「なかなかいい出来ではありませんか。正直のところ、とてもあれだけにも演れないと思つていたのですがー。早くキャメラになれて、他の役者や、監督に拘はらないで、少し乱暴なくらいおほまかになるやうにするんです」という批評と忠告とがあったという。



「私の人生の大部分に亘つて、私をいたわり励まして、よりよい人間になるようにと導いて下さつた、よき愛護者たる兄であり、また良き指導者たる先生であつた恩人」と書いているとおり、渡辺温が注いだ慈愛とも言うべき無償の愛は、幼い頃から病弱で貧しかった彼女の心をどんなに慰めてくれたことだろうと思う。

「道ちやん、渡辺さんが.....」
「渡辺さんが、何うなさったの、お母さん?」
只ならぬ母の聲に驚いて、思はず駆け寄つた私が、父の打ち慄える手に広げられた夕刊を覗き込むと、
渡辺温惨死す!
いきなり、大きな活字が、私の目を覆ふてしまつたのです。
私は、私の全身から、さツと血潮の失せてゆくやうな、寒さを感じながら、また、よろめく足を踏み耐へようとしつつも、なほフラフラと崩折れさうになる身体を支へて、漸くの思ひで自分の部屋へ辿り着くと、我れを忘れたやうに、机の前に座り込んで、渡辺温探偵小説全集を取つて、その口絵の写真を開きました。見慣れた黒の洋服に、いつもの寂しそうな顔をして居られる渡辺さん!見詰めているうちに、其の寂しい顔が、写真の中から抜け出して、私の頭を、胸を、いつぱいにしてしまつたのです。

渡辺温が亡くなったのが昭和五年の二月、それから八年後の昭和十三年九月、及川道子もまた温と同じく二十七歳という若さでこの世を去る。元々病弱だった彼女もまた、英パンと同じく撮影所の激務には耐えられなかった。



あとがきで「私の病難と災厄との自叙伝」と称したこの書を綴った僅か三年後のことであった。


*1:画像は清水宏監督作品『抱擁(ランブラッス)』(1930年)のスチル

*2:実は川端康成による代筆らしい

*3:彼女を評して「あんなに清純無垢な女優はあのひと以後見たことがない」と映画評論家の岸松雄は言っているが、吉屋信子『私の見た美人たち』によれば、及川道子のファンは女性が多く、男性ファンはあまりいなかった、曰く「イットがない」ということらしい、というような趣旨のことが書いてある。