しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

岡田桑三=山内光のこと その壱



岡田時彦『春秋満保魯志草紙』(昭和3年、前衛書房)に「Monsieur Camouflage」なる文章がある。


其の僕を称して、俗に能書屋桑兵衛と號する山内光が一言以てMonsieur Camouflageと云った。(中略)此の點山内光が云ったムシウ、カムフラアジは見た眼の感じで僕を髣髴とするにけだし適言である。


人付き合いを嫌い、撮影所を一歩でると「再び憂鬱な本来の僕」に立ち戻り、岡田嘉子をして「頭のいいことは確かだけれど、善人なんだか悪黨なんだか其処がどうしてもハッキリしない」と言われ「容易に肚の底を割らない」ということで、山内光にムッシュウ・カモフラージュと名づけられた英パン。



そんなムッシュウ・カモフラージュ・岡田時彦も、丁度時を同じくして日活から松竹蒲田に移籍してきたこの混血の美男俳優、山内光とは仲が良かったようだ。現に、この本の序で「感謝のこころを披瀝」したいとして、村山知義、内田岐三雄、大島十九郎とともに、山内光の名前も挙げられている。



この英パンの活動俳優仲間・山内光がのちに岡田桑三*1という本名で、野島康三・木村伊兵衛中山岩太らが創刊した写真雑誌『光画』にも係わり、そこで培われた人脈から、1933年に、名取洋之助木村伊兵衛・伊奈信男・原弘と共に「日本工房」を立ち上げ、1940年代に入ると、東方社を設立して対外宣伝誌『Front』を刊行し、さらにその後、甘粕正彦に請われて満映満州映画協会)で天然色フィルムの製作に乗り出し、戦後は、彼の生涯のキーマンの一人である澁澤敬三を先頭に南方熊楠の遺稿交刊と彼の業績を研究対象とする目的で「ミナカタ・ソサエティ」を設立、1950年代に入ると、海外でも高い評価を受け、優れた科学映画を数多く世に出した東京シネマを創設する、というこれを読んだだけでも、右に左に物凄いフットワークで軽やかにジャンルやイデオロギーを横断し、1930年代から1950年代という「映像の世紀」を文字通り駆け抜けた人物だった、ということを知ったのは、ごくごく最近で、いや、というより、岡田桑三と山内光という名前がイコールで結ばれただけで、知れば知る程その多彩さに舌を巻く経歴を知ったのはこの本を読んでからで、著者に昭和モダニズム研究者のひとりである川崎賢子が名を連ねているというので、以前からどんな本なのかは気になっていたけれど、まさかこの岡田桑三という人物が英パンの友人・山内光と同一人物だったなんてつゆ知らず、最近一番の「おお!」という発見(相変わらず遅いよ...)で、この事実を知ってしまったからには、こうしてはいられない!といつもの通り半ば強迫観念でもって、ええい、すぐにでもこの本を読まねばならないッ!と思い込んでさっそく『岡田桑三 映像の世紀 グラフィズム・プロパガンダ・科学映画』(川崎賢子原田健一共著、平凡社*2を図書館からいそいそと借りてくる。



岡田桑三(=山内光)は1903年横浜生まれ。母がクリスチャンだったため幼い頃より様々な人が出入りする文化サークルのようなものが幼い桑三の周りには形成されており、そこで東山千栄子の実父母、渡辺暢・達子夫妻や、羽仁もと子の弟、松岡正男や、達子の兄で初代東京天文台長の寺尾寿(子供が居なかったため、のちに達子の二女・千子を養女として迎え入れた、これがのちの東山千栄子)などがいて、よく彼らの話題に南方熊楠という「ずばぬけて偉い大変な学者」(p.20)のことが出て来て、幼い脳裏にその名前が染み付いたのだという。またある時、クロポトキンの本を読んでアナキズムに心奪われ、1922年に最初のベルリン留学を果たす。その船上で戦後「ミナカタ・ソサエティ」を共に設立することになる澁澤敬三(澁澤栄一の孫)と出会う。



彼のフットワークの軽さを端的に示しているエピソードとしておもしろかったのは、1929年3月5日に議会で治安維持法改悪に一人で反対していた労働農民党の代議士山本宣治が右翼の黒田保久二に刺殺されるという事件*3があり、それに対する抗議として3月8日に本郷の東大仏教青年会館にて告別式を開くことを聞いた岡田桑三は、ただちにこれを撮影しようと決意する。蒲田撮影所から35ミリネガフィルムや松竹ニュースの腕章まで調達し、告別式の撮影を行うとただちにタクシーで撮影所に戻ってフィルムを現像するという、松竹蒲田撮影所に出入りする一俳優としての立場を大胆不敵に利用して、自らの政治的信念に基づき軽々と所属俳優から逸脱した行為をやってのけ、公的政治活動を行ったというもの。そのプロキノ(日本プロレタリア映画同盟)作品として撮られた『山宣告別式』を携えて、撮影の半年後にはモスクワ、ベルリンに赴いて、エイゼンシュタインやティッセ、プドフキン、メイエルホリドなどと交遊することになる。(つづく)

*1:岡田桑三の多彩な経歴については、http://tokyocinema.net/sozo.htmで詳しく述べられている。

*2:isbn:4582282431

*3:この事件の記録としては、この岡田桑三のプロキノ映画以外にも、大月源二の描いた『告別(山宣葬)』(1929)がある、というのを先日のNHK-ETV特集「日本人と自画像」を観ていて偶然知った。ただならぬ事件に接して、映画や絵画という芸術手段を用いて克明に記録するという時代があったのだな。こういうのにからっきしわたしは弱い。