しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

<本日の英パン発見>


その1:


山本嘉次郎『カツドウヤ紳士録』(大日本雄弁会講談社、1951年)に岡田時彦のことが出てくる。貧乏に喘いでいても、いかに彼が洒落男だったかが手に取るように伝わってくるくだりがおもしろい。自伝の中で「凡そ此のモダアン・ボオイといふ言葉くらゐ不愉快な輸入品はない」とか何とか言いながら、実はやっぱりしっかりモダンボーイだったのね、英パン!

大阪のある活動屋が、活動屋には珍しく、藝術映画を作ろうという念願を立てた。(中略)橋渡しをする人があって、ボク、岡田時彦(当時はまだ高橋英一という本名を名乗っていた)それからその英パン(岡田時彦のアダ名)のそのころの細君であった夏目加代子(引用者注:香代子が正しい)、宇留木浩、宇留木の妹の細川ちか子、それから、後に大映の所長となった須田鐘太なんかがこれに加わって、大阪の、とある町外れのシガナイ陋屋に、ヤマカワ・ブロダクションという看板をかけた。(中略)


なにしろ、血気盛りな連中ばかりである。たまには肉も食いたいし、コーヒーも呑みたい。まず、マンドリンから初めて、本、外套、洋服と売り拂った。いまでいう、タケノコである。しまいには、冬だというのに浴衣一枚になってしまった。
しかし、英パンだけはガッチリしたものだった。


「役者は服装(トバ)を落としちゃいけない」


こういって、上着に丹念にブラシをかけ、ズボンは毎晩寝圧しをして、キチンと身装を調えて、毎日のように松坂屋百貨店に出かけていった。そこで無料の茶を呑み、無料のオーケストラを聞くのである。



その2:


また、モダンボーイと言えばこの人、VANの石津謙介について書かれた鹿島茂の文章にも「あ、こんなところに!」英パンの名が出てくる。「本牧」時代ということは、日活をやめて松竹に移り、高田稔の隣人になった頃。本牧のチャブ屋というのはやはり有名な「キヨ・ハウス」のことで、「ただ翻弄されたいとのみ願った」フローレンス・ヴィドア*1や「カアドで謂ったらクラブのA(エース)みたいな小母様」ポーリン・フレデリック*2の幻影を追い求めてのことだったのかなあ。ちなみに一緒につるんでいた中野英治は岡田時彦と逗子時代同じ小学校に通っていたらしい。


「生まれて初めて作った背広は、三つ揃いの英国型。マテリアルは生意気にもグリー ニッシュなスコッチの手織りツイード。当時のお金で五十五円。(…)ネクタイとなると、これは今でもそうだがクラプ・タイ・オンリー。丸善三省堂で英国製のものをセレクトしていた。レイン・コートはへヴィなへリンボーン・ツイードのものを着ていたなあ」帽子は、昭和初期の映画スター中野英治がかぶっていた大甲パナマを、 銀座の帽子店大徳寺で十五円も出して買った。へア・スタイルは真ん中からわけるセンター・パート。美男俳優で有名だった岡田時彦ばりに舶来の最高級ポマードをベッタリ塗って決めた。 


ようするに、昭和初期のモボの中でも一頭地を抜くダンディーだったわけだが、いわゆる「遊び」つまり、女遊びのほうも、それにふさわしい場所でなければと、横浜は本牧のチャプ屋に通った。チャブ屋というのは、戦前のフランス映画に出てくるメゾン・クローズ(高級娼館)のようなもので、外国の船員相手だったが、日本人でも 、店のほうで資格ありと認めた客だけは入れてくれた。石津謙介はもちろんその一人で、中野英治や岡田時彦も常連だった。

簡単に検索で見つかる資料はあまりにも少ないので、今後、岡田時彦とかかわった人々の残した文章を丹念に読み探すことで少しでも英パンの実像を知りたいという素人の物好きな自由研究、次回は、映画監督・内田吐夢につづく。

*1:写真左:キング・ヴィドアの妻だった女優、ルビッチ『結婚哲学』にも出演している。

*2:写真右:『マダムX』(1920年版)に出ていた女優、『マダムX』といえば、ルース・チャタートンが出演しているリメイク版(1929年)のポスターが『マダムと女房』でお目見えするのが、「お!」だった。