しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


映画メモ:


海の日ぴあフィルムフェスティバルにて、ダグラス・サーク翼に賭ける命』(1957年)『天が許し給うすべて』(1955年)の二本を観た。



ウィリアム・フォークナー『パイロン』が原作の『翼に賭ける命』は素晴らしかった。imdbのレヴューによると、サークの言葉として引いているのだけれども、フォークナーも自身の映画化された作品のなかで最も気に入っていたという。



モンローを思わせる豊かなブロンドの髪に、意志的で強いまなざしにどこか暗い影をおびた瞳の、素晴らしい脚のヒロイン、ドロシー・マローンが何と言ってもため息ものに美しい!黒いベルトでウエストマークしたドレープたっぷりの白いフレア・ワンピース、タイト・スカートにアンサンブル・ニットを羽織り、首もとには短いパールのネックレス、そして、足元はもちろんいつもハイヒール。どちらかと言えば、コンサヴァでそっけないアメリカン・トラッドなのだけれど、こういうシンプル・シックな装いが彼女の美しさをいっそう際立たせている。という訳で、彼女が映るシーンをいちいち感嘆のため息とともに観たのだった。



ロック・ハドソンは二枚目として出演している割には抑えた演技というか、ヒーロー的でもなく、ドロシー・マローンに惹かれながらも、ひっそり寄り添っているという程度の存在感で、傍観者にさえ見える。唯一、彼の登場シーンで印象的だったのは、新聞社に乗り込んで大演説をぶって、まるで紙くず同然になった株券を宙に放り投げる大恐慌時代をそのまま体現するかの如く、原稿の束を放り投げて白い紙の雨を降らせるところくらい。



秘かにドロシー・マローンを愛している、整備工のジャック・カーソンはルックスもいかにもクセ者という感じでよいのだけれども、彼の人間味がもうちょっと細かく描かれていると(例えば、ジョン・フォードの映画におけるバリー・フィッツジェラルドのように)個人的にはもっと好みだったかなあという気もする。まあでもこれはきっとダグラス・サークのセンスというか匙加減が洗練されているからであって、それに、この作品はたぶんドロシー・マローンの映画なのだからこれで良いのでしょう。もう二度と妻と息子とともに幸せに暮らすことはないと判っていながら飛び立たざるを得ない「空の英雄」ロジャー・シューマンロバート・スタック)の飛行機への偏執的な取り憑かれ方は、飛行機と運命を共にすることをはじめから決めているかのよう。「これが終わったら三人で一緒に暮らそう」というスタックの言葉(大意)によって、すべてを犠牲にして忠誠を誓ってきた飛行機に別れを告げる言葉を吐いたことで、皮肉にも運命の女神は彼を見捨ててしまう。だが、スタックがこの言葉をドロシー・マローンに向かって発する時、観客はこの飛行機は必ず事故を起こすという不穏な予感に捕われざるを得ない。このあらかじめ予測された悲劇が不穏な響きとなって映画を浸食してゆくさまはまさにフォークナーの真骨頂といったおもむきで、スタックが飛び立つ直前に、思わず漏らす整備工ジャック・カーソンの「神よお助けください」の言葉も却ってむなしく響くだけだ。



『天が許し給うすべて』は、時計台や枯葉や雪景色や窓枠に凍り付いた霜を美しく映し出してはいたけれど、話自体は割と普通のメロドラマ(個人的にいかにも健康美なロック・ハドソンの過度な流し目がちょっといやらしくて苦手、こんな肉感的な男性の座右の書がソローの『ウォールデン』だなんて、ええー、本当なの?という印象だし、ヒロインのジェーン・ワイマンも綺麗だけど好みではなかった)で、よって主役の二人をあまり気に入らないままのメロドラマ鑑賞(おお、これは厳しい!)となってしまったため、正直さほど心動かされたという訳でもないのだけれども、それはさておき、50年代のファッションがたいへんに素敵で眼福だった。ノーブルな魅力溢れる未亡人役のヒロインの洗練された佇まいも素敵だったけれど、娘役のグロリア・タルボットなんてポニーテールにロイド眼鏡にサーキュラー・スカートという、まさにフィフティーズの女の子そのものという装いでとても可愛かった!ダグラス・サークはお洒落でダンディなお人だったんだなあ、きっと。



休憩時間に階段の踊り場の壁に貼ってあったマキノ雅弘による「映えて 画いて」の文字を見つけて、前の晩に見たETV特集マキノ雅弘 ある活動屋の生涯」での、感動的と言うほかない「マキノ節」そのもののスピーチを思い出してまたジーンと胸が熱くなる。