しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや



金曜日にアテネフランセで数年振りに成瀬巳喜男『流れる』を観て、翌土曜日にBunkamuraル・シネマでジャン・ルノワール恋多き女』"Elena et les hommes"を観ることができるという、2008年東京の贅沢!今気付いたけれど、どちらも1956年の作品だった。



ジャン・ルノワールの映画を観てしまうと、この溢れ返る圧倒的な幸福感に身も心も骨抜きにされて、いつもため息交じりに呟いてしまうのだ、ああ、もう映画はルノワールだけ観ていれば十分なのではないか?、と。一瞬とはいえ、ついうっかりそんな気になってしまう監督というのは、わたしの場合ルノワール以外には居ない。



2007年にスクリーンで観た映画のベストは、有楽町の朝日ホールで観たエルンスト・ルビッチのサイレント作品『花嫁人形』(id:el-sur:20070612)*1なのだけれど、このルノワールの作品を観ていても思うのは、ルノワールもサイレントから撮っている監督なのだなということで、思わず『花嫁人形』のルビッチを思い出してしまう大袈裟なドタバタ喜劇っぷりの冴え渡っていることに今更ながら驚嘆する。



フランスの素敵な映画を観る度にーマックス・オフュルスの『快楽』とか!ー夢想するのは、わたしも木の床を革靴で踏みならしながら大股で歩きたい!というもの(←バカですね)で、軽やかさとコメディエンヌ振りには幾分欠けるものの、グレイの瞳とつんと高い鼻が美しい大柄のイングリッド・バーグマンが、ドレスの裾も気にせずに大股でカツカツと床を踏みならして闊歩するのは「これ、これ!」という感じで極私的に嬉しい。ルノワールが撮るとどの女優もいきいきとした生命力に満ち溢れてしまうのが毎度のことながら素晴らしい。



わたしの好きな映画の一つのパタンに、同じ台詞しか言わない傍役が出てくる、というのがあって、この映画の中でも「いい時代だったよ!」としか言わないご婦人が出て来ていちいち笑わせる。思わずマキノ正博『昨日消えた男』(東宝、1941年)で「なるほどねえ」「いや、まったくだ」としか言わない、サトウ・ロクローと渡辺篤コンビを思い出してしまって一人にんまり。



父親のオーギュストの画《ムーラン・ド・ザ・ギャレット》や《舟遊びの人々の昼食》そのままの、テクニカラーで撮られた色彩の洪水がひたすら目に眩しくて、クローゼットの奥に仕舞い込んでいるcacharelの襞がたっぷり入っているシルクスカート(白地に赤とピンクと青とエメラルドグリーンと黄色の小鳥とリボン柄)を久しぶりに身に付けたくなる。



映画館を出ると雪が降っていた。あとからあとから降ってくる大粒の雪を見上げながら、傘をくるくる回さんばかりに、たった今映画で流れていたワルツ調の曲をハミングしながら雪を踏みしめる足取りも軽やかに帰った。つまり、ルノワールの映画とはそういう映画なのだ。

*1:とはいえ、勿論別格の一位は溝口健二『瀧の白糸』ではありますが。