しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

溝口健二『愛怨峡』(新興キネマ、1937年)



これは傑作。
わたしの中では「大政」(勿論、あの素晴らしきマキノ雅弘次郎長三国志』シリーズ!)ということになってる河津清三郎は名優なのでいつもの通り素晴らしくてシビレたけれど、主人公・ふみ役の山路ふみ子が、特に後半に向かってみるみるその存在感と強さと輝きとを増してゆくような演技を見せるのに驚く。引きの長回しでかなり時間を割いて映し出される河津清三郎との漫才の掛け合いシーンの、何といきいきとした瑞々しい魅力をたたえていることか。フィルムセンターの作品解説に「新興のいわばアイドル女優であった主演の山路ふみ子は、溝口の厳しい演出に応えて転落した女の強さを見事に表現し、本作を機に演技派女優として開花した。」とあるのも納得。前半の山路ふみ子の印象は、台詞をややゆっくりおっとり喋るのがぽわんとした田舎のうぶなお嬢さんといった印象で、良くも悪くもあまり個性が感じられない、ちょっとはじめて観る女優のタイプかなあ、擦れてない雰囲気は愛らしいのだけれど、くらいにしか思えなかったのですが。うーん、やっぱり女性を撮らせたら溝口は凄いんだわ。



舞台は雪深い信州の山奥。温泉宿の若旦那(清水将夫)の子供を身籠ってしまった女中おふみ(山路ふみ子)は、煮え切らない男に一緒に東京に駆け落ちしてくれるよう懇願する。おふみに請われて半ばしぶしぶ東京に駆け落ちしてきた若旦那。だもんで、甲斐性のない若旦那は身重の彼女に仕事を探させて、自分は居候させてもらっている気のいい友人の部屋でぐうたら小説なぞ読んで過ごしている。一方、おふみは職を得るため街中をあてもなく彷徨っていると、親切な流しのアコーディオン弾き(河津清三郎)に口利きしてもらい、ようやくミルクホールの仕事を得る。喜び勇んで部屋に戻ってみると、若旦那はたった50円の手切れ金を残し、実家の父親に言われるがまま連れ立って信州に戻ってしまったあとだった。悲嘆に暮れるおふみ。しかし生まれてくる子供のためにも一人でやってゆこうと決意する。生活のために生まれたばかりの赤ん坊を胸の潰れる思いで底意地の悪い産婆(浦辺粂子)に預け、いつか坊やを引き取って一緒に暮らす日を夢見ながら身をやつして働くおふみ.....。



それにしても、若旦那に捨てられた一人ぼっちのおふみを見守る芳太郎(河津清三郎)は男のなかの男って感じでマジで泣ける、これぞ純愛。溝口映画における男といえば、たいてい女性を虐げたりもてあそんだりと、どうも酷いのばかりが目につく印象なので、この情に満ちた真の愛情を持つ男を描いているというのは珍しいのでは?と思う。あ、でも『近松物語』の茂兵衛(長谷川一夫)もそうか。



それが「30年代」の映画で、英パンが亡くなる直前に在籍した「新興キネマ」で撮られた「溝口健二」作品、ということで台風接近にもかかわらずいそいそと観に行ったのだけれど、いくつかにんまりするシーンがあったので覚え書き。



・芳太郎役の河津清三郎に言わせている台詞で「元々映画館の楽士だったが、トーキー後に失業してしまった」という趣旨の話。サイレントからトーキーになった後の楽士の失業というのは、瀬川昌久『舶来音楽芸能史 ジャズで踊って』*1で以前ちらっと読んだことがあったので覚えており、改めて「ほう」と思った。尤も、この本には「映画館の伴奏楽士の失業は、トーキーの出現によって起きたとされているが、実はそれより先に、伴奏レコードの使用によって取って代わられつつあったというのが真相である。」(p.46)と書いてあるのですが。



・腫れぼったい瞼の白塗りの少女たちが踊りながら唄う(レヴューまたは少女歌劇?)のは勿論、二村定一『青空』(1928年・昭和3年)のメロディ!わたしが好んで観る映画が偏っているせいもあるかもしれないけれど、30年代の日本映画のほぼ半分にこのメロディーがシーンの何処かに流れているような気がする。本当に流行った曲だったのね『青空』は。



・串揚げ屋(もしくは、とんかつ屋?)のカウンターで山路ふみ子が『ダイナ』のメロディーで替え歌を披露する。ディック・ミネの『ダイナ』(1934年・昭和9年)も当時大変流行った曲だったそうで、わたしの好きな「あきれたぼういず」も色んなカヴァー(というか替え歌?)をしていておもしろい。



「大政」といえば(←しつこい)、同じく『次郎長三国志』シリーズで「法院大五郎」役のこれまたわたしの好きな俳優、田中春男も出ているということで、目を凝らして探したのだけれど、ちょっとよくわからなかったのが残念だった。うちに帰って調べてみたら、おふみと若旦那を居候させていた気弱で人のよい友人役だった、えー、ちいとも気がつかなかったそうだったのか!



明日から新文芸座ではじまる特集「リスペクト・溝口健二」にも可能な限り通うつもり、ああ、楽しみだ!