しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

『こほろぎ嬢』(浜野佐知, 2006)



下北沢シネマアートンという、階段を上ってゆくと、こほろぎ嬢の住んでいた「二階の借部屋」のような薄暗い小さな映画館ーそこはまさしく翠の映画を上映するのにうってつけの場所といった雰囲気!ーで『こほろぎ嬢』を観る。



かの女が作品を発表してから、もう80年程の月日が流れているというのに、作品は古びるどころか、新鮮な驚きを持って今も尚新しい読者を獲得し続けているという事実、そして『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』の浜野佐知監督による今回二度目の映画化。あんなに映画が大好きだった翠のことだもの、下界を見下ろしながら、どんなにかこのことを喜んでいることだろう。いや、下界を見下ろすというのは正しくないかもしれない。かの女の魂はきっとあらゆる場所に、それこそしゃあぷ氏のような気体詩人となって霞のごとく散らばっているに違いないから。



それで思い出したけれど、わたしの2004年9月27日の雑記にはこうあった。



「わたしの住む辺りは真昼間であってもだあれも居ない、木の葉が重なり合ってさわさわいう音や虫たちの近づいたり遠のいたりする微かな羽音しか聴こえないような場所があって、人影のない一方通行の路地の小さな交差点でふと立ち止まって辺りを見回すとしんと空気と時間が止まっていることがよくある。そんな折、ひょいと狭い路地裏を覗いてみると、薄暗い地下室の図書館の机上での午睡の夢から醒めてまだ寝ぼけまなこのこほろぎ嬢がねじパン半本なんぞ齧りながらこちらへ歩いてくるような心持ちがして途端に胸がざわざわするのが判る。」



そうなのだ、この2007年になっても、ひょいと路地裏を覗けば、そこで翠やこほろぎ嬢や小野町子に出会えそうな気がするのだ。翠の、翠だけが持つ、この親密な距離感覚は一体何処から来るのか?



ハロー、翠、お元気ですか?こちらは相変わらずです。
今日はあなたの映画を観たあと、さっき地下食堂で見たねじパンが食べたくなって、駅でねじパンを買って食べました。あいにく、チョコレエトのあんこはついていなかったのですけれど。そして、暫くのあいだ、ねじパンに没頭しながらわたしはずっとあなたとこほろぎ嬢のことを考えていました。映画の中で嬢は一人劇場の椅子に座って伊藤大輔『血煙高田馬場』(1928)を観ていたのですね!翠、あなたは踊り子たちの脚がシャンパンの泡のごとくはじけるネオン輝く浅草レヴューの都会の喧噪よりも、一人ぽつねんと武蔵野館の闇の中に座ってシネマの光と影を追いながら徳川夢声活弁に耳をそばだてている方がきっと好きだったのでしょう。わたしは、どちらかというと都会の喧噪やモダンガールやダンスホール岡田時彦や浅草レヴューの明るさに惹かれてしまう方なので、闇の中でひっそりと無声映画を楽しむあなたと全く正反対の性格なのに、どうしてこんなにもあなたに心惹かれてしまうのか判りません。それとも、自分とは全く違っているからこそあなたに熱狂的に魅されるのでしょうか、これが幸田当八氏の言う処の分裂心理というものなのか知ら?



懐かしい旧い友人に宛てて書く手紙のように、わたしはわたしの生まれる前に既に亡くなってしまった作家に、思わず名前を呼び捨てにして、呼びかけてしまう、翠、と。本を開けばいつだってこの懐かしい友人に会えるような気がして、わたしは尾崎翠を読み続ける。



正直に言うと、わたしはこの映画『こほろぎ嬢』を観るべきかどうか迷っていた。尾崎翠はわたしにとってかけがえのない心の友人のような存在で、とりわけ『こほろぎ嬢』は熱烈に好きな作品で、わたしの翠と映画とがかなり違っていたら、きっと長い間に渡って嫌な気分のまま過ごすことになるに違いない。



けれども、幾人かの信頼すべき友人たちのこの映画に対する言葉がわたしの背中を押してくれた。



この映画を観てよかった。



浜野佐知監督の『こほろぎ嬢』という作品に対する愛、尾崎翠を思う気持ちがはっきりと伝わってくる作品だった。



個人的な好みの問題で、難が全くなかった訳ではないけれど(しゃあぷ氏とふぃおなの出てくる洋館のシーンの軽さ、一部で使われていた電子音風の音楽や、地下室アントンのイメージなど、細かいことを言えば「これはちょっとなあ」と思うところもあった)それでも、ワンシーン、ワンカット、どこをとってもガラス細工を扱うように、大へん丁寧に丁寧に作られているという印象を持った。とりわけ、冒頭とラストのこほろぎ嬢が翠のポートレートそっくりな黒い帽子を目深に被って砂丘に佇む姿が(安易な連想だけれど、どうしても植田正治を思い出してしまう)美しかったし、こほろぎ嬢役の鳥居しのぶはやや神経質そうに見える所も、面長な顔立ちもわたしも思っていた嬢のイメージにぴったりで嬉しかった。町子役の石井あす香も可憐で初々しかった。庭先の柿をもいで食べるシーンは官能的とも言えるものだったと思う。百合子さんの『もの喰う女』を思い出す。



映画が終わったあと、ロビーへ出ると、狭い通路のちょうど正面に浜野監督がいらして、ぱっと目が合ったので少し微笑みながら心の中で、どうもありがとうございました、とお礼を言った。普段だったら、きっと監督の姿を見かけたら図々しく話し掛けてついでにいらぬことまでぴいちく喋ってしまうのが常なのに。わたしの心にはすっかり嬢が取り憑いていたので、たいそう内気で孤独を愛する女になってしまっていたのだった。



映画『こほろぎ嬢』は下北沢シネマアートンにてモーニングショーで5/18まで上映。