しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


だから、という訳ではないけれど、小説のためにちまちまと書き散らしていた映画覚え書きを思い出したように載せてみます。




「少女の頃の混乱した心を遠慮なく感傷的に表しなさい」(マノエル・デ・オリヴェイラ『アブラハム渓谷』*1


 列車の汽笛が響いて渓谷にこだまする。金属が擦れ合って立てる規則正しい軋みを深い溜息とともに響かせながら、列車は木立のあいだを抜けてゆく。右手に赤茶けた屋根の家並みとその向こうに広がる山、パイヴァ河の濃紺色の水面。山々の連なりは、霞がかかったように見え、遠くになるにつれてその色は徐々に淡くなり、光のもやのなかに溶け込んでいる。


 十四歳のエマ。巻き髪は亜麻色、見開いた大きな強い瞳、胸には大きな紺色のリボンを付けたVネックのとろんとしたやわらかな素材の赤紫色のワンピース(肌にぴったり吸い付くような)を身に着けている。わたしがお近づきのしるしに、と果実の蜂蜜漬けを差し出すと、いらないわ、こんな特別なもの、と言いながら、目を凝らすようにしてじっとその大きな強い瞳でこちらを見遣る、まるで自信に満ちた微笑とその美貌を見せつけるかのように。


 父親と会話を交わすわたしに、エマはこんな下らない会話は退屈で仕方がない、とうんざりした表情をみせ、手持ち無沙汰にメニュウで顔を仰ぎながら、あきれたようにちらりと横目でわたしを見つめ、それから天井の、この暑さと退屈さには何の役にも立ちそうにない送風機に目を遣る。それきりわたしの方をもう見ようともしない。


 肢だけ白い靴下を履かせたような黄金色の目をした黒猫を抱いて、エマが渡り廊下からこちらにやって来る。編み目の荒い、アランニットのようにざっくりとした生成りのフィッシャーマンズ・セーターにはエマの唇の色とそっくりの真っ赤な大輪の花の刺繍が施されている。「先生にはラメゴでお会いしただろう?」という父親の問いに「おぼえてないわ…ラメゴで?」挑むような表情でわたしを見つめる。けれども、エマはほんとうはちゃんと憶えているのだ。やや反り返った、二枚の赤い薔薇の花びらのような唇を心持ち上げて綺麗に並んだ白い歯をちらりと覗かせて。「エマはいったい何様のつもりなんだ?」とわたしは思う。


 エマは真紅の薔薇を花瓶から一本抜き取り、まるで香りを嗅ぎながら同時にそのすべてを飲み干すかのように白い喉を惜しげもなくあらわにして、かすかに震わせながら恍惚とした表情で目を閉じ、薔薇を高く天に掲げる、ただ、もう、うっとりとして。母胎とのつながりを思い起こすように薔薇の花びらをゆっくりと指でまさぐる、それは温かく守られた子宮の襞の記憶。そして、一冊の本『ボヴァリー夫人』。喉の奥を鳴らしながらくぐもった鳴き声をたてる黒猫の柔らかな背中をなでながら、ページを繰るエマ。


 右手に人差し指を口にくわえて甘噛みしながら、よく響く甲高い声で笑うエマ。エマの笑い声は甲高い、人を小馬鹿にしたような笑い声だ。「女に読書はいらない」と言う叔母と、その後ろ盾になっている敬虔な信仰心に闘いを挑むかのように甲高い声で笑う。エマは無意識のうちにこれらのものと対決するつもりなのだ。


 白いリボンのついた白い帽子に、五分袖でスクエアネック(衿に沿ってレースの飾りのついた)のウェスト切り替えの白いワンピース、白い手袋を嵌め、白いストラップ・シューズを履き、白い小さなサテン地のバッグを持って、エマは足を引きずるようにして進み、だだっ広い部屋の真ん中に座っている老姉妹をやや見下ろすようにして、噛み付くようにわざとらしく歯を剥き出しにして微笑む。「これは将来恐ろしい女になる」と老姉妹は思う。

 
 ところどころ苔むした石段の上に白いスワトウ刺繍のついたハンカチをそっと敷き、ぎこちなく悪い方の足をかばうように、やや足を開き気味にして座るので、白いワンピースの裾は腿の方までたくし上げられ、膝から下がすっかりあらわになり、その奥の陰までが覗いてしまう。エマはまるでバルテュスの描く少女のように無防備に足を投げ出したまま、父親にもらった十字架の首飾りを光にかざすようにしてうっとりと見惚れるが、自分の姿態と仕草が男たちに放っている炎の矢のような魅力には気付いていない。無意識の媚態。男たちのぎらついた欲望に満ち満ちた視線を感じ、急いで裾をひっぱり、あらわになった膝を隠し、眉間に皺を目一杯寄せて不機嫌そうにコンパクトをぱちんと閉めると「何て失礼な人たちなの、今に見ているがいいわ」と毒づき、白いレースのついた日傘を勢いよく開くと、かすかに足を引きずりながらその場を立ち去る。


 青い部屋、青い光に照らされたエマ。ドビュッシーの月の光、サーモンピンク色のシルクのガウンを羽織り、鏡の前に立つエマ。蝋燭の焔が青い部屋を親密な光で照らす。窓の外は月光を除いてすべてが群青色に溶け込み、蝋燭の灯りのみがエマの顔を暖かなオレンジ色に照らし出す。青に浮かび上がる水辺のヴェスヴィオ邸、水面の灯りが帯のようにゆらゆらと白くゆらめく。青のグラデーションにすべてが溶け込んでいる。


 深緑色の水、青い空、乾いたヴェスヴィオ。大きな青い衿のついたクリーム色のワンピースに、パールのネックレス。青いリボンのついたつばの広いクリーム色の帽子を被り、白いデイジーの小さな花束をそっと大奥様に捧げてエマは扉を開ける。

 
 陽を浴びて朱色に色付いたオレンジがたわわに実る果樹園、生い茂る葉のあいだに白い空を嵌め込まれて、木漏れ日が影をつくる。その中を「幸運を呼ぶ」青色のリボンをなびかせ、クリーム色のつばの広い帽子を被り、舞踏会にでも行く貴婦人のように美しく着飾ったエマが微笑みを浮かべながら、奇妙に浮いたような軽やかな足どりで駆け抜ける。お気に入りの桟橋に辿り着いて、もう何度も通ったことがあるから充分に判り切っているはずの、腐って朽ちた板二枚に「幸運を呼ぶ」青色の靴に滑り込ませた右足を取られて、それでおしまい。あとに残るは、豊かな水をたたえたドウロ河の柔らかな水の音。


 深紅の薔薇の花びらを指で弄りながら、意地悪そうに口の端をゆがめて、強い眼差しでじっとこちらを見据える、その自信に満ち溢れた不敵な微笑。真っ赤なべコニアが咲き乱れ、コーラル・ピンクのつがいのカナリアが転がるような声でさえずる、大きなヴェランダのある懐かしいロメザルの館。指先にまだ残る子宮への襞の湿り気を帯びたあたたかく柔らかな感触。幸福に包まれた幼い頃の甘美な記憶。風に吹かれるまま揺れ動く薔薇の花びらのように、移り気で、尊大で、気高くて、残酷で、ロマンティックに生きる永遠の少女のまま、ただまっすぐに死へと向かうエマの表情の、何と晴れやかでみずみずしく息づいていることか!もはや死でさえも、この映画にあふれ返る豊穣を払拭することはできずに、手をこまねいているしかないようだ。そう、そしてエマは確かに、あの瞬間は幸福だったのだ。ロマンに耽溺することで、自らの首を絞めることになるその感傷的な運命、それを悲劇と名づけてしまうのは簡単だが、あの時、エマはきっと幸福に満ちあふれていたに違いない。そうでなければ、何故、死へと向かうエマの足どりは、あれほどに軽やかで、その表情はひどくみずみずしいのだろうか?