しっぷ・あほうい!

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浪華悲歌 [DVD]



溝口健二『浪華悲歌』(1936)
平日は夜の七時、セルリアンブルーとマンダリンオレンジの地下鉄をすいすいと乗り換えてフィルムセンターに寄れる日はたいへんに上機嫌。昨日は『祇園の姉妹』と同じ年に撮られた『浪華悲歌』を観る。またしても素晴らしいのは山田五十鈴。『祇園の姉妹』での跳ねっ返り娘はそのままに、けれども、今作品でははんなりとした京都弁がすてきな芸妓ではなく、大阪という都市で生きる、いきの良いモダンガールぶりが見もの。彼女の仕事が、当時の女性の花形職業だった電話交換手だというのも素敵。パーマネントの断髪に帽子をななめに被って、トレンチコートを羽織り、格子の首巻きをきゅっと結んだ山田五十鈴の装いはまるで山名文夫のデザイン画*1から飛び出してきたかのよう。そんな格好で、ぼんやりと街灯のゆらめく橋のたもとで一人孤独のうちに佇んでいるシルエットは、もうそれだけでわたし的には「ああ、観に来てよかった。」と思わずため息もの。二十歳そこそこの山田五十鈴は輪郭もぽやんとした下膨れで、まだ匂い立つような美人女優というオーラはないけれど、それでもこの圧倒的な存在感はどこから来るのだろう?と驚くばかり。

この映画のラストシーンは『祇園の姉妹』のように絶叫することはないものの、またしても、彼女の顔のアップで終わるのだけれど、そのアップになった山田五十鈴の表情がほんとうに素晴らしい。警察に連行され、恋人は去り、家族からもつまはじきにされ、とうとう行くあてもない浮草のような身になっても、彼女は決してよよと泣き崩れたりなんかしない。それでも人生は続く、それでも生きていってやるんだという強靭な意志が、大写しにされた彼女の見開いた大きな瞳と真一文字に結んだ唇に顕われ、その途方もない強さがスクリーンを正の輝きで満たしている。そして、そう、これが現実というものなのだ、と溝口は言っているのかもしれない。だからこそ、救いのない現実を描いているのに、お涙頂戴の悲劇に陥ることもなく、むしろ観終わった後に残る印象はどこか爽やかなのだ。

「たいしたおなごだな」と半ば呆れ気味に言われ「そうでっしゃろか」と応える山田五十鈴。ほんとうに山田五十鈴は「たいしたおなご」なのだと思う。というか、滅茶苦茶かっこいい!

それから、個人的には、冒頭で流れる陽気なジャズ・ソングもまさに30年代モダン文化!という感じでたまらなかったし、山田五十鈴が妾として囲われているアパートの部屋の天井には何やら植物柄の影絵のような模様が入っていて、えらくモダンなのだ。それに、花王石鹸のネオンサインが輝く夜の街を映し出すところから映画が始まるのもわくわくした。ちょうど前述の『都市の視線 日本の写真1920-30年代』をぱらぱらやっていたところだったから、すぐさま小石清の「あ、クラブ石鹸!」とぴんと来たけれど、これは勘違いで、石鹸は石鹸でもクラブ石鹸ではなくて、花王石鹸なのだった。

*1:ハウス オブ シセイドウの展示「女たちの銀座」も早く行かなきゃ!12月24日まで。