しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


祇園の姉妹 [DVD]


土曜日は『噂の女』『祇園の姉妹』をフィルムセンターに観に行く。*1

東京で音楽学校に通う女学生(久我美子)が手痛い失恋をして、京都の島原遊郭で老舗の置屋を営む実家に戻ってくるというところからスタートする『噂の女』は彼女のモダンガールぶりが見ものということらしく、確かにショートカットに黒のタートルネック、ふわりとしたフレアスカート(その裾から覗くのは何というほっそりとした華奢な足首!)を翻して伏し目がちに登場する久我美子は笑ってその八重歯さえ見せなければ、やや太めの眉も含めオードリーそっくりに見える。置屋のおかみをきびきびとした着物姿で切り盛りする母親役の田中絹代のお太鼓は右下がり。お太鼓はまっすぐよりどちらかに傾いている方が粋に見えるなあと思う。あれは玄人だからなのかしら?それにしても、全編にわたって、もやもやするような、ざわざわするような、心掻き乱されるような居心地の悪さがするのはなぜかと思ったら、黛敏郎の不穏な音楽のせいだということが判った。そういえば『赤線地帯』もそうだったんだよなあ。小津のあたたかくて優しいオルゴールの音楽とは大違いだ。『赤線地帯』の方が京マチ子若尾文子がでているからそう感じるのか、救いのないリアリズムのうちにも一筋の光が見て取れて、わたしはこちらの方が好み。


祇園の姉妹』はすばらしかった。山田五十鈴*2はやっぱり凄い女優さんだわ、ってこんなの誰もが口にしていることで今更わたしなんぞが言ってみても何の足しにもならないけれど、でもそれでも言わなきゃって思うほど凄い。女優魂というものがあるならば、それはこの人が持っているに違いないという感じ。弱冠二十歳そこそこの女優とは思えない堂々とした演技っぷりはスクリーン上でただただ煌めいている。彼女の流暢な京都弁を聞いているだけで、鏡台の前で髪を梳る姿を見ているだけで、その姿をこうして映画のスクリーンで観ることができること、それ自体が全く「有り難い」ことなのだとさえ思ってしまう。


とにかくこの作品は山田五十鈴に尽きる。ラストシーン、騙した男に復讐され円タクから振り落とされて大けがをし、病院のベッドで身体中包帯に巻かれながらも「男になんか負けるもんか!負けてたまるか!」と力強く絶叫するところで映画はぷつりと途切れる。溝口のまなざしはどこまでも透徹で、執拗なまでのリアリズムを観る者にこれでもかという位に見せつける。だからこそラストシーンの山田五十鈴の悲痛なまでの叫びは胸を打つ。女の情念、たくましさ、男に都合のいいように翻弄されながらも、それでも生きてやろう、生き抜いていってやろう、という彼女の魂の叫びがずんずん胸に迫ってくるようで、なぜだか、ふと野溝七生子『山梔』の主人公・阿字子を久しぶりに思い出したりもした。


溝口は昔、同棲していた女性に剃刀で背中を斬られたことがあるという話を例の田中眞澄『小津安二郎のほうへ』で読んだけれど、妙に納得してしまった。それくらい、女という対象に肉薄していったのが溝口健二その人だったのだと思う(って偉そうなこと言うわりにはまだ数本しか観てないのですけれど!)。

*1:コリドー街までひとっ飛びと思ったけれどやっぱり無理でした。行けなくて残念ちょうちょぼっこ+ゆきのうえ「夜と古本」。そのかわりと言っては何だけど銀座の路地裏、念願かなって人生初ルパン!素敵なバアだったなあ。でも酩酊して永楽屋のお気に入りの手ぬぐいをお店に忘れてきてしまったらしい、とほ。

*2:たぶん、はじめて観た山田五十鈴の作品は何年か前に六本木・オリベホール『ダンス・イン・シネマ』で観た「木漏れ日映画の傑作」と名高い、成瀬巳喜男『歌行燈』だったように思う。そのあと『流れる』を観て素晴らしいと思ったけれど、何と言っても長谷川一夫と組んだマキノ正博『昨日消えた男』でのテンポのよい掛け合いと可愛らしくていじらしい芸者役は観ていて幸福になるようで、この映画を観て決定的に好きな女優さんのひとりになった。