しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


岡田時彦による渡辺温の追悼文


国会図書館の提供する「雑誌記事索引」の断絶と不備とを埋める、皓星社の「雑誌記事索引集成データベース」(http://www.libro-koseisha.co.jp/top01/main01.html)は本当にすばらしい仕事.....!無料公開だったテスト版の頃からちょくちょく利用していますが、検索するたびに着実に収録誌と収録範囲が増えていっている印象。本当はこういう地道だけれど大切な仕事こそ一企業ではなく、国がきちんと収集・公開すべき、と思いますが......。というわけで、今やこんな雑誌の記事まで拾ってくることができるのです。すごいなあ。


MYSTERY HUNTERS『猟奇』3巻4号(1930年5月1日)より

渡辺温君のこと


渡辺君に最後に逢ったのは、彼があんな他愛ない死にかたをした、あの半月ほど前、つまり此の一月の末の或る凍り切った晩、水谷準岡戸武平氏と連れ立って本牧の私の家を訪ねて呉れたあの晩である。


何でも伊太利の舟で各國の港々に各が国の産物を紹介して廻るとかいう、其の船が横浜のハトバに寄港していた頃なので、渡辺君達もつまりはそれを観る目的でやって来たのだが、一日違ひで其の船が遙々と外国へ去ってしまった其の後へ折悪しくやって来たとかで、其の鬱憤を彼等の馴染のハンブルグ酒場で今まで酒にまぎらしていた。――とそう云っていた。


(中略)


それッきりもう渡辺君には遂に逢えなくなってしまった。


尤も其の後四五日して電話で話したことはある。何でも二月二日だったかに『新青年』の座談会があった。それに私も出席することに前々から話し合ってあったのが、あいにく当日になってみると会社の急ぎの仕事で湯河原へ出掛けなければならなくなったので、私は出先から博文館へ電話を掛けて其のよんどころのない事情を説明して渡辺君の諒解を得たことがあった。


それから間もなく、私は黄疸を患って寝就いてしまった。其のひどい熱の中に私は思いも依らぬ彼の死を知ったのである。いったい渡辺君は乗物に対しては大変要心(ママ)深い筈であったのだが.........。


前に一度こういうことがあった。


いつか上森健一郎君の御馳走で、新居格横溝正史の二氏とそれから温ちゃんと僕の此の四人が浅草のさる鳥屋で晩飯を食っての帰り、何となく銀座へ出掛けてみようというので円タクに乗った。車が何でも小伝馬町辺を走っていた時、直ぐ前をやはり同じ方向へ走っていた同じ円タクが電車と激しい衝突をして、乗客の一人が血だらけになって車から転がり落ちた無惨な光景を我々は目撃したのである。
翌日の新聞で、其の大怪我をした人が京都の有名なカギ屋の令息で、渡辺君の知己だったと知れて温ちゃんは少し驚きながら其の時私にこう云った。


「僕は病気で死ぬとは思わないが、どうもいつか交通事故で殺られそうな気がする。」


――それが二年ばかり前の話である。


渡辺温君を惜しむ心持は誰よりも甚だしいだろう僕、勿論彼に就いては幾らでも書くことがありながら、何分にも今は旅の身の上、あわただしい中にこれだけしか掛けない。(一九三〇、三、一三 奈良にて)


やっぱりエーパンと温ちゃんは友人同士だったんだ.....ということが確認できただけでもにんまり。上森健一郎岡田時彦の著作『春秋満保魯志草紙』(昭和3年)を出版した前衛書房を主宰していた人物。不二映画設立の黒幕とも言われていて、村山知義や内田岐三雄の本もここから出ていたはず。あと、何かと気になる新居格がここにも登場しているのも個人的には興味津々です。