しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


山中富美子のこと


昨年の秋に石神井書林の目録に載っていた『山中富美子詩集抄』(森開社、平成二十一年九月)を手に入れてから、何度かぱらぱらと詩篇をいくつか読んではみたものの、これまでじっくり読むということをしてこなかった。詩集は小説と違ってつねに読み終えることをしない類いの本なので、こちらもそれなりの心構えをして向かわないとなかなか詩の言葉が入ってこないのだ云々、などという言い訳でもって、長いあいだ机の上に積まれて頁が開かれるのを待っていた本のうちの一冊である。


著作年譜によると、山中富美子は1914年高知生まれ。1931年に17歳で『詩と詩論』(春山行夫編、厚生閣書店)に作品が掲載された(左川ちかと見開き)のをきっかけに、『L'ESPRIT NOUVEAU』(北園克衛編、紀伊國屋書店)『椎の木』(百田宗治主宰)『MADAME BLANCHE』『文芸汎論』などに相次いで詩篇を寄せたが、その中でわたくし的には高祖保が編集をしていた『苑』にも作品を寄せていたことを知ったのが「お!」であった。また、養父が鉄道省に勤務していた関係でのちに小倉に移り住み、博多篠崎の鉄道官舎に住んでいた、という記述にも、これまた別の文脈で「お!」であった。


以前、春山行夫のことを調べていて駒場近代文学館で西条八十の『蝋人形』を閲覧していた時、「『詩と詩論』の時代について」というエッセイを寄せていたのを筆写した(何故って、近代文学館の複写代は大へんお高いんですもの!)ことがあり、そういえばその中で山中富美子についても触れられていたのであった。

『詩と詩論』の装丁には、阿部金剛古賀春江、福沢一郎などの諸氏がフレッシュな構図を寄せられた。(中略)ただ二十年というながいあいだに、詩の領域から姿をけしてしまった人々についてだけは、いつもふかい回想的な哀愁を感じている。『詩と詩論』から『詩法』『新領土』の二つの雑誌に移ると、すぐれたエスプリを持ちながらこの世を去った若い人々や、いつの間にか沈黙して郷里の村や町に姿をかくしてしまった人々の数はさらに多くなる。私はそれらの人々を回想しながら、私の手許に残された詩の花々を一巻の書物にまとめて残したいという願いはいつも持っている。


北海道のポプラの写真を私にくれた左川ちか。郵便切手のようにフレッシュだった酒井正平。彼はニュウギニアから熱帯魚について葉書をくれたきりで戻ってこない。悪魔に追いかけられたような生活をしていた冨士原清一。彼は沖縄附近で戦死した。マダムから死亡通知をもらった府川恵造。ランボオ的鬼才で、小学教師が蛇を追いかけてパパイヤの木に登るというイメジを描いた饒正太郎。満州の土となった逸見猶吉etc.
 
結婚のため中国地方のどこかに行ってしまった澤木隆子。足がわるい娘さんだったときいている山中富美子の二人は、純粋なエスプリの所有者だったが、いまはどうしているのだろうか。
春山行夫「『詩と詩論』の時代について」『蝋人形』三巻十一号/1948年11月)


『山中富美子詩集抄』のタイトルページには、透きとおるような白い肌に桜貝のような唇の紅、髪をお下げにして大きなリボンを付け、うつむき加減にやや下を向いたひとりの美少女の写真が載っており、戦前の婦人雑誌なんぞによく載っている矢鱈白粉くさい良家のお嬢様やらお世辞にも着こなしているとは言えない洋装のモダンガールやらのスナップと比べてみても、まがうかたなき美しさと清潔さで、ああ、こんな鈴蘭のように美しい少女が書いた詩篇なのだなあ、としみじみ思いながら読む。


雲のプロフイルは花かげにかくれた。
手布が落ちた。
誰が空の扉をあけたのか。

(山中富美子「海岸線」部分)