しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや


「言葉にできないことを言葉で書いて表し、理性ではっきり理解できることではないことを伝えるのが小説」


と、星野智幸が2/6付夕刊『東京新聞』のインタヴューで語っているのを今朝偶然に読む機会があった。


これは、まったくもって正しい。とか言うと「まったくもって正しい」とか「これが正解」なんてものは小説には存在しないのだからそもそもが矛盾している気もするけど、つまりはこういうことなのだ。


たとえば、尾崎翠の素晴らしさやその魅力を言葉で語るのは容易ではないように、小説の愉しみを言葉で表現することは難しい。すなわち、「打ちのめされるような凄い」小説の魅力を語ることはとても難しいもので、上手く言い表せないもどかしさに声をうわずらせながら、ただ「とにかく、いいから読んでみて....!」と言うしかないのだ、変な熱情に突き動かされて頬を紅潮させながら。


はっきりとした筋があって、頭の中に言葉がぽんぽん入ってきて簡単に面白さが理解できるのはそれは物語ではあっても小説ではない。とか言うとまた蓮實重彦の物語批判の蒸し返しかよ!という声が聞こえてきそうですが、小説とは、手のひらに掬い取って指の間からこぼれ落ちてしまうような、とりとめのないはかない泡沫のようなものや、記憶以前のまだ形作られてさえいないもやもやした得体の知れないものや、人間の不可解な理性で割り切れない部分、たとえば、潜在下の奥底に沈んでいるグロテスクな部分を日の光のあたる場所に引きずり出して、果敢にも言葉で何とか表現しようとしてばたばたとあがいているようなものだと思う。


結局、刷り込みとは恐ろしいもので、『近代日本の批評 昭和篇』で語られている「趣味で文学を楽しまれちゃあ困るんだ」というたぶん蓮實重彦(だったと思う)の言葉がふとするとわたしの頭の中にはいつも重くのしかかるように響いていてエトセトラ・エトセトラ....とかいう、どうでもいいような、いや、どうでもよくないようなことを、久しぶりにつらつらと考えた。


ラテンアメリカ系の文学やマジック・リアリズムにあまり親しんでこなかったわたしは長いこと横目で気になりつつも星野智幸の小説をひとつも読んだことがない。


斉藤美奈子の書評も新聞で読んだことだし、新刊の『植物診断室』を今度図書館で借りて読んでみようかな。