しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

折口信夫つれづれ


眼前に物凄い高さでそびえ立つ山には容易に近づけない。それは判っているのだけれども、折口の落とした、ただ一滴の茄子紺色のインクが――そう「靄遠渓」が波紋を描くようにしてじわじわと染み入ってゆく心地がしている。正直に言うと、折口信夫という人物に関するさまざまなエピソードを読めば読むほど気味の悪い人だなあという感が否めない。それなのに、何故だか折口信夫の書いた文章から視線を外すことができないのだ、不思議なことに。この不思議な抗しがたい言葉の魅力。例えば、こんな文章。

「ほうとする話」


ほうとする程長い白浜の先は、また、目も届かぬ海が揺れてゐる。其波の青色の末が、自(オノ)づと伸(ノ)しあがるやうになつて、あたまの上までひろがつて来てゐる空である。ふり顧(カヘ)ると、其が又、地平をくぎる山の外線の立ち塞つてゐるところまで続いて居る。四顧俯仰して、目に入る物は、唯、此だけである。日が照る程、風の吹く程、寂しい天地であつた。さうした無聊の目をらせるものは、忘れた時分にひよっくりと、波と空との間から生れて来る――誇張なしにさう感じる――鳥と紛れさうな刳(ク)り舟の影である。

遠目には、磯の岩かと思はれる家の屋根が、一かたまりづゝぽっつりと置き忘れられてゐる。炎を履む様な砂山を伝うて、行きつくと、此ほどの家数に、と思ふ程、ことりと音を立てる人も居ない。あかんぼの声がすると思うて、廻つて見ると、山羊が、其もたつた一疋、雨欲しさうに鳴き立てゝゐるのだ。

どこで行き斃れてもよい旅人ですら、妙に、遠い海と空とのあはひの色濃い一線を見つめて、ほうとすることがある。


はじめて折口の文章に触れた時、「ほうとする」「ひょっくり」「ぽっつり」「ことりと」などの独自な言語感覚にも目をみはったが、何より心惹かれたのは、海と空と山を隔てるその境界について書き記していたことだ。湿り気を帯びた微細な粒子が空気中を覆い漂っているような皮膚感覚。まるでその「あわい」を、ほの白い薄明かりと乳白色の靄で包んであいまいにしてしまう様子を、俯瞰で眺めているような、じんと沁む不思議な心の動き。「伸しあがるよう」な青色の波頭は日光に照らされると、そうだよなあ、白く輝いているように見えるよなあ.....などとつらつら思い巡らしながら、ふと山中貞雄の遺したあの目映いばかりの『海鳴り街道』のフィルムの断片を思い出してしまう、あの波間にきらめく白い光と浜辺と海の途方もない美しさの記憶。


じっさい、折口信夫という人物を知れば知るほど、いや、「知れば」という言葉がこの人の場合には、意味をなさないような気もしてしまうのだが、かえって混沌の渦に巻き込まれてしまうような心地がする。混沌としているからこそ俄然興味を惹かれるとも言える。この判らなさはいったい何なのだ?


折口の手による奇妙なまでに詳細を記した年譜、自ら読者に対する解説を買ってでたかのような長大な「自歌自註」や「追い書き」は、一見、手の内をすべて読者に明かしているかのようだが、ますます折口信夫という人を判りにくくしている。折口は推理小説やクイズが好きだったという話があるけれども、もしかすると読者を撹乱させるべく、あのようなテクスト群を痕跡として遺したのではないか?とまで思ってしまう。折口信夫を巡る言説が溢れ、死後も絶えることがないのは、この読み手の眼前に投げ出された手掛かりを読み解き、確かなものを探し出そうと皆が皆躍起になっているからなのではないか。いや、正確を記すならば、皆をそうやって駆り立ててしまうほどに、折口を読むことはおもしろいのである。


村井紀はそのスリリングな折口批判の書『反折口信夫論』(作品社、2004年)にてこんなふうに書いている。

私たちは「告白」=「真実」などといった素朴な信仰を棄て、つねに「告白」の背後に存在するほかにないもの、いいかえれば折口自身にさえ「告白」など決してしきれないもの、言葉の正確な意味での「詩的現実」、あるいは彼の内的現実、存在感にこそ目を向けるべきである、彼の口車に簡単に乗せられてしまってはならないわけである。つまり彼自身にもついぞ見なかったものこそを見るべきであり、そこにおいてこそ彼の異様な愛の出自を知り、さらにその呪縛の構造を解明することができる。(p.33)


この指摘には、なるほどそうなのだ、と思う。私たちはきっと、折口の「告白」を鵜呑みにしてはいけないのだ。村井紀はまた折口が「あらゆる点で異端で」あり、「民俗学や国文学といった学問、そして文学史というところからもつねにズレており、おまけに男であることからさえはみ出して」おり、「かれにふさわしい場所はどこにもない」と言うのであるが、これにも頷くしかない。


しかしながら、この卓越というべき批評(折口が弟子にさせた口述筆記とバフチンポリフォニーとの比較など大へんに興味深い)の読みをもってしても、折口の不思議な魅力の秘密には迫れていないと思う。確かに、常に時局に寄り添い神話の言葉を以てして戦争に加担したファシズムの問題は重要で、日本人には信仰心が足りなかったから戦争に負けたのだと歌に詠み、あるいは自らを神と準えるかのような妄言とも言うべきあやうさは著者の言うようにきちんと書き留められるべきだし、人格や性癖についての数多のスキャンダラスな側面は、彼を「天才」「神」という聖域から引き摺り下ろす要因にはなろうが、だからといって、折口学という他に類を見ない破格の学問の豊穣さは、膨大な量のテクストとしてわたしたち読者の前に歴然として存在するのだし、その深淵な思想に心酔するエピゴーネンを数多く輩出してきたということは、つまりは、折口信夫の生み出したジャンルを越境した学と言葉そのものがすこぶる魅力的だったことの証しであるし、いや、そんなまどろっこしいことを言うまでもなく、「ほうとする話」をただ読めばいいのである。


幼少期から青年期にかけての多感な彼に影を落としたであろう不幸な逸話(兄弟中自分だけ里子に出されたこと、いつも女の子のような赤い帯を締めて、友達もなく孤独だったこと、眉の上に大きな青い痣があり、インキと呼ばれていたこと、女系家族で腹違いの兄弟達が居たこと、父が亡くなり何度も自殺を試みたこと、落第をして傷心を癒す旅に出たことetc....)はどれも極めて文学的要素に満ち満ちており、この「不幸せ」こそが折口信夫という破格の人物――折口自身でさえも計りし得ない次元にまで到達してしまった――を形成する大きな要因になったに相違ないと思うのだ。


それから、今回折口を読み進めていてちょっと嬉しかったのは、1930年2月の『改造』に掲載された「詩と散文との間を行く発想法」(このタイトルも個人的に今の気分にしっくりくる)という文章の中で、「第二の潤一郎になる人」として、意外や意外、長谷川海太郎こと谷譲次の名前を挙げていたことで、その張り巡らされたアンテナの広域具合にますます気になるなあ折口、というところなのです。