しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

『蒼生2019』を読みたいなとTwitterで呟いたら、とある方のご厚意でお送りいただいた。ここでは名前を挙げられませんが、深謝いたします。

話題の特集「文学とハラスメント」に掲載の笙野頼子の原稿を読んで、依頼者の学生への優しさ―笙野頼子はいつも弱い者の立場につく人という印象がある―が滲み出ているのはよかったが、いっぽうで、思い込みでこんなことを書いてしまって大丈夫なのだろうか? という部分もあり、なんとも複雑な読後感だった。そこまで言わなくてもいいのに、という箇所もあった。小説家特有の読者サービスなのか。笙野頼子の著書は、ある一時期友人の影響で数冊読んだことがあり、その時に『徹底抗戦!文士の森』も買って読んだはずなのだが、すでに手放してしまったし、残念なことに何も内容を覚えてない。最後の福嶋亮大にかんする歯に衣着せぬ物言いは、さすがに痛快で吹き出してしまったのだけど。わたしもくだんの文章をウェブで読んで、この方は文壇に関係があるのかしら?  と思っていたので。しかし、この文章のタイトルは全体の内容からすると違うのではないかと思った。雑誌がどういう形になるのかを知らされていなかったのかもしれない。

トミヤマユキコさんのエッセイ(これはとても納得できるものでよかった)も読み、「ハラスメント紋切型辞典」の辛辣なユーモアにこういうのは好きだし、くすっとさせられたりもしたが、とはいえ、これを書いた学生の悲痛な叫びが誌面に横溢しているようで胸が痛み、さらに、槍玉に挙げられている市川真人氏と北原美那氏のnoteも読んだら、いったい何が事実で何が偽りなのかよくわからなくなってしまった。人間社会で日常茶飯事の行き違い、すれ違い、誤解、思い込みが引き起こした不幸な一例を垣間見たという気がした。お互いに傷つき/傷つけられて、どちらにとっても不幸という…。

昨年から続く一連の騒動でいちばんの被害者はもちろん渡部元教授にハラスメントを受けた女子大学院生であるが、ある日とつぜん指導教員がいなくなり置き去りにされたゼミ生たちもまた、かの女と同様に深く傷ついたのではないかと思う。学生たちの受けた深い傷がいえず、疑心暗鬼の状態が解消されないまま、ふたたび今回の件が起きてしまったことが悲しい。2000年代はじめのある時期の、まだ冴えない表紙だった頃の『早稲田文学』を愛読?していた(昔、せっせとヌーヴォー・ロマンを読んでいたのは平岡篤頼先生のワセブンに憧れたというのがある)一読者としては、そして、この騒動の直前の金井美恵子特集で豪華プレゼントを頂戴した者としても、ほんとうに「悲しみ」という感情がいちばん偽りないような気がする。最近、『三田文学』が早稲田の居ぬ間にと、力のこもった特集を組んでいるのを見るにつけても。いや、別に『三田文学』も読みますけれど。こんなことになってしまって、悲しい。

専任教員側に弱い立場の学生を守れなかったという前回の苦い記憶があり、餅井アンナさんはそのインタヴューで「みんなうっすら共犯」と話されていたけれど、その二の舞だけはなんとしても避けたいと、事実関係の精査よりも、あくまでもひとつのフィクションとして成立させることを優先させ、こんどは学生側につくことを選んだ、ということなのだろうか。ここで下手に校閲をして組織的隠蔽が疑われるという取り返しのつかない状況だけは避けたかったというのが本音なのかもしれない。

三者がnoteを読むかぎり、学生と教員という絶対的な権力構造があるにしても、市川氏(全体的に精神的に弱っている感じで書かれており、泣き言のように見える部分もあり、教員の立場としてどうなの?   と思わないでもないが)や北原氏が書いている一部の内容―特に非常勤教員の北原氏の文章は冷静に書かれていて納得できる部分や同情を禁じ得ないくだりもあり、これを読むかぎりにおいては、H主任(やれやれ、わたしはこの方の文章のファンなのに!)をはじめとする他の担当教員の対応も誠実さに欠けるというか、なんだかなあという感じがある。これがもしほんとうのことであるならば。しかし、これ以上、学生を傷つける訳にはいかないというお家事情があり、今回は教員側2名が涙を飲んでくれ、といったところだったのか。これもしかし結局は一方の側からしか言葉を受け取っていないのでフェアではない。 弱い立場の学生側から教員によるハラスメントだと指摘されたのであれば、やはりこの声は相当に重いだろうし。Twitterを見るかぎり、履修者の学生たちのあいだでも、市川氏や北原氏側を擁護する意見もあることを知り、部外者にはますますもってよくわからない。

それと、これはぜひとも付記しなくてはならないが、『蒼生2019』は他の特集ページもとてもおもしろい。どうしてもセンセーショナルな特集「文学とハラスメント」のみが注目されてしまいがちだが、昨年惜しまれながら閉館した雑誌図書館・六月社の社長インタビューも「あ、これは読みたい!」と思ったし、町田の高原書店の記事もおもしろかった。音羽館の広瀬さんが三浦しをんを採用したのも知らなかった。 ライターの餅井アンナさんのインタビューも共感できるものだった。特集「紙の本を保存すること」は、装丁家の対談も興味深かったし、宗像先生のインタヴューもたいへんよかった。原稿用紙で二〇字書いたら折り返すという繰り返しそのものが日本語の文章のリズムをつくってきた、という指摘にもなるほど。特集にはさみこまれた学生のエッセイもよかった。つまり、雑誌として、ユニークでおもしろい読みものになっているという気がした。書店のリトルプレス棚に『蒼生2019』を見つけたら、買っていたかも。さすが早稲田だね。こんなのをつくった文ジャの学生のみなさんは胸を張っていいと思いました。それわたしに言われても、という感じですが。

氷見敦子、長岡三夫  ○ 征矢泰子  △

 

北川朱実『死んでなお生きる詩人』(思潮社)を読んだので、以下やや怒りながらメモ。

主観的すぎる。感動の押し売りというのか。この内輪サークル感!

だから詩の世界はダメなんだと思ってしまう。〜と言ったのは〇〇だが、とか、〇〇は〜と書いたが、とか、ほとんど関係のない固有名詞が引用されるのも、それが地の文を補完する的確な使用ならばいいのだが、たんなる知識のひけらかしのようにしか見えない。内田百間などの名前を出す必然性が感じられない。「美しい」という言葉を簡単に使いすぎる。やたら表現が大仰。筆がすべりすぎている。評伝やポルトレならもっと抑えた筆致で客観的に書くべき。思いがつよすぎるあまり、対象にべったり寄りすぎて盲目になってしまっている。あと、急に著者の話が挟み込まれるのにも首を傾げる。友人知人たちはどうやらこの本を好きらしいけど、わたしはよくないと思った。取り上げられている詩そのものというよりは、書き方が。

こういう内輪でしか通じない言葉をつかった閉鎖的な詩の世界に見切りをつけ、みずから離れていった平出隆がわたしは好きだし、吉岡實の言うように、詩の読者は数十人でいい。近しい人たちがいいと言っているものをまったくいいと思えないという事実はいっそうわたしを孤独にさせる。いや、いつだってひとりぽつんと立っていたではないか。なにを今更。というか、わたしはなぜ他人の書いた文章にこんなにも目くじらを立てているのか。詩が好きだからか、それとも、やはり嫌いだからか。愛と憎しみ。じぶんでもこの心の動きがよくわからない。しかし、なんとも腹の立つ読書であった。氷見敦子の詩はまとめて読んでみたい。征矢泰子の詩は悪くはないけど甘ったれたようなところがよくない。

夏休み読書で、田中純『過去に触れるー歴史経験・写真・サスペンス』(羽鳥書店)。著者の『冥府の建築家』には感銘を受けたので、第2章のアーカイブの旅はスリリングだった。 「死者から選ばれている」と思い込むに至るのは、気の遠くなるようなアーカイブ探索をつづけた著者だからこその感慨だろう。

芸術家のモノグラフを執筆する著者たちが何の躊躇もなく「資料がない」といった弁明をするたびにかすかな苛立ちを覚える、と著者は書くのだが、この点についても首肯するし、鍵のかかった日記帳を開けたとき「自分はこの日記を読んでもよいのか」という唐突な疑念に襲われたというのもしごく真っ当な反応だと思う。 ひょっとすると、この日記や手紙を通じて死者の秘密を暴いてしまうかもしれない、という「死者への負債感」。こういった根源的な怖れを欠いた書物はやはりどうかと思う、というわけで、『須賀敦子の手紙』はやはりどうしても引っかかるのです。しつこいようですが...。

 『過去に触れる』の感想に戻ると、ところどころ引っかかるところもあって、例えば「サスペンス映画とは引き延された写真的時間ではなかろうか」と著者は書くのだが、わたしが読めていないだけなのかもしれないけれど、ここのところはどうもピンと来ない。また、口絵のジゼル・フロイントが撮影した、小さなキンポウゲの花を手にしたベンヤミンの写真を「キンポウゲという女を「断首」していたのである」と読解するところなども(うーん、そんな大げさなものなのかなあ、と。たんに川辺を散歩していて小さな花が咲き乱れていたら、そのひとつを摘んでみるくらいのことは、何の気なしに誰でもするのでは?)。それよりも、このカラー写真が明治期の着色写真のようにへんに人工的な色味を帯びていることの方がわたしには気に掛かった。

蓮實重彦「伯爵夫人」おぼえがき

『新潮』2016年4月号掲載の蓮實重彦『伯爵夫人』を読んで、そのあられもない小説に唖然とする。エッジの効いた鋭い言葉の数々に舌を巻いてきた者としては、「老いてますますさかん」という言葉がぴったりな精気漲るこの小説を読んで、マノエル・ド・オリヴェイラのようにいつまでもお元気で長生きしていただきたいなと切に思うのであった。

冒頭で「欧州」の「欧」の字が旧字になっていて、はて、これは?と思うのだが、「活動小屋」「活動写真」という言葉が見つかるので、なるほどこの小説の舞台は戦前、しかも少し読みすすめるときな臭くなってくる支那事変以降なのだと気付く。従妹の蓬子は『淑女は何を忘れたか』の桑野通子(地球儀をまわしてぴたっと止めるシーンや「口をとんがらせる」に)をどこか思い起こさせるし、伯爵夫人が啖呵を切るような江戸弁が冴えわたる辰巳芸者に豹変するところは藤純子のお竜さん、男色の平岡は三島由紀夫ケイ・フランシスはルビッチ『極楽特急』(1932年)のため息が出るほど美しい女優ときて、ああ、そうか、これは蓮實先生によるルビッチばりのソフィスティケイテッド・コメディ、艶笑小説なのか知ら?とぴんときたのだった。まあ、でも、艶笑小説――というよりもほとんどポルノグラフィ?だから仕方ないのだろうが、過剰な性的描写が延々と畳み掛けるように続くのが、濃厚なフォアグラを口腔にこれでもかこれでもかと無理やり押し込まれているかのようで読んでいてちょっと辟易してしまったし、やや度が過ぎるのではないかとも…。万事、匙加減重視のわたしのような者にとっては。もちろん、これは受け手の嗜好もあるけれど。

わたくし的には、ルビッチのようにドアの向こうで展開されることを匂わせる程度で「イット」を描いていただけるともっと好みだったのにな、と思うけれど、今は1930年代ではなく、この2016年という野蛮な時代に差し出されるのだから、これくらいの過剰さで丁度釣り合いが取れているのかもしれない。というか、むしろ戦争というグロテスクに釣り合うための過剰さなのかも知れない。文中でたびたび警句のように示されるように、世界の均衡などというものはちょっとしたことで崩れてしまうものなのだから。

やはり小説の悦びは細部にあるのですと言わんばかりに、ディテールがすばらしくて「コミュニズム」を「コンミュニズム」と表記するとか、断髪の和製ルイーズ・ブルックス男装の麗人、白木屋に同じタオルを一ダース届けさせるとか、ニッキ水とか、バイエルのアスピリンとか、欧州の小説の読み過ぎで結婚前に一度は気絶したい(わたしも着飾った上での失神に憧れた時期がありましたわ!)とか、蒲田時代の松竹の活動屋とか、周到にちりばめられたそれらを見つける愉しみがそこかしこに。

そして、極めつけに小津安二郎の文字が躍り出る…! しかも、作品名とともに二度も。何ですか、このわくわく感は。と、にんまりを通り越してあやうく声をあげそうになってしまう。まるでパラマウント映画。戦前の『キネマ旬報』を通読しているかのよう。「とんがらかす」という言葉が散見されるので、とんがらかっちゃダメよ、という渡辺はま子の声が頭のなかでこだまして、またしても思い浮かべるのは聡明ではねっ返りの姪という役柄がぴったりだった『淑女は何を忘れたか』における桑野通子。ばふりばふりの回転扉は角度120度の贅沢。「男装の麗人」にターキーや川島芳子、さらにそこから『間諜X27』のディートリッヒを思い出し、「帽子箱」にボリス・バルネット、「仔犬を連れた貴婦人」にチェーホフ、戦争に傾斜してゆく時代の描写に久生十蘭のあの素晴らしき小説『魔都』をおもう。金井美恵子だったら伯爵夫人の装いのディテールをそれこそ布地―クレープデシンとか―からドレープの具合まで緻密に描いただろうなあ。いやはや、これぞ粋でゴージャスで洗練された極上のエンタテインメント。フルコースで愉しませていただきました。

同時に我々は「貧乏人は蓮實の真似をするな」(浅田彰)をしっかと肝に銘じねばなりませぬ。ついうっかり手を出すと伯爵夫人のあの骨ばった細い指でぴしゃりと叩かれること必至。これは上流階級の方にしか書けない小説なのであって、わたくしどもは間違ってもこの方の真似なぞしてはいけないのである。

しかし、ここで淀川長治さんが御大を「ニセ伯爵」(シュトロハイム『愚なる妻』)と呼んだことが、どうも気に掛かってくる。

伯爵夫人とは誰か?

倫敦の高級娼婦でもあった正体不明の伯爵夫人は、フローベールが「ボヴァリー夫人はわたしだ」と言ったように、ニセ伯爵としての作者・蓮實重彦そのものだったのだろうか、とかなんとか、ふたたびつらつらと思い巡らす。ああ、それにしても愉しい読書だった、満たされた、ぷへー。

お知らせ3つ

黄金週間のあいだに参加した冊子が刊行されたのでそのお知らせです。まずは、真治彩さん編集の『ぽかん』05号で附録の「ぼくの百」を担当しました。大切な本を100冊選んでよい、という読書する人間にとっては夢のような企画。拙い文を林哲夫さんの大へん素敵なコラージュで飾っていただいて感激です。あの本の次にはこれかなあ、この本だけはどうしても入れたいな、など、とても愉しく選ばせてもらいました。一覧性がありますができれば1から順に100まで読んでいただけると書いた方としては嬉しく。こんな機会を与えてくださった編集長の真治さんに感謝します。詳しくはこちら⇒ぽかん編集室

それから、河内卓さん編集の『北と南』Vol.4(特集:川)に短い文「河太郎のほうへ」を書きました。伊達得夫と那珂太郎の筆名と中洲にあったブラジレイロという喫茶店について。こちらは、野崎歓さんや山崎佳代子さん、菅啓次郎さんなど、豪華執筆陣。こんな場所に紛れ込んでよいのだろうか...。巻頭の藤部明子さんの川の写真も素敵。よろしければぜひ。

北と南/河内 (@kita_to_minami) | Twitter 

それから、これはけっこう前なのですが、以前書いた「spira/cc」という書評(のようなもの)がオンラインで購入できるようになりました。こちらもよろしければどうぞ。

01. 中野もえぎ 「河野道代『時の光』を読む」紙本版

05. 中野もえぎ 「わたしも葉書でドナルド・エヴァンズに」紙本版

PrintRooms - store

 

どこかでお目にかかれると嬉しいです。

花見散歩

日曜日、東京のソメイヨシノが満開との報。15時頃から雨が降るともいうので、午前中のうちにいそいそと支度して散歩に出掛ける。東京女子大学の構内に、花桃と思しき白い花が枝にみっしりとつらなって咲いている。満開の八重咲きの白。遠目だと少しさみしい印象の山茱萸も目に入る。わたしは控えめな感じのするこの山茱萸という樹木が好きだ。善福寺公園までの道のりに種類の違うミモザがそれぞれ満開になっているお宅があり、しばらく立ち止まって見とれてしまう。房状になっている濃い黄色のと、明るいレモンイエローのと。上からなんだか視線を感じるなと思ったら、二階のベランダの角から黒目がちの柴犬が顔をせり出してじっとこちらを眺めていた。わたしのなかではミモザは祖母の花なので、老人ホームにいる祖母を思い出してしまう。祖母がミモザを詠んだ歌。

堀越しのミモザの影の切れ目より四月の海の風を見ている

善福寺公園はうす曇りにもかかわらず大勢の花見客と子どもたちで溢れかえっていた。大人二人の花見はぽつんとしている。無言のままぼんやりと池のほうに視線を泳がせたり、しんみりお重の中身をつついたりと、どこかさみしそう。外国人観光客のカップルが水をぱしゃぱしゃさせながら、白鳥のボートに乗っている。狭い船内に窮屈そうな身のこなしで、軀の大きな白人男性が生真面目な顔つきでいっしんにボートを漕いでいるさまは、どこか滑稽だ。水面に向かって撓んだコブシの白い花がゆらめく。池の端に植わった、釣鐘状の小さなレモンイエローの花をたくさんつけたトサミズキも夢のように美しい。キンクロハジロは黒と白がシックな水鳥なのだけれど、頭のうしろに寝癖のような羽毛がしゅっとついているのが、なんだかプレスリーのリーゼントの髪型を思い起こさせて可笑しい。ニワトコの緑があんまり鮮やかで、こんなにきれいな緑色だったかなと思う。池をぐるりとまわって対岸から眺めてみても、ニワトコの生えているそこだけが発光しているように緑が鮮やかだった。シダレヤナギの若芽が風にたなびく姿はまるで雪岱の版画《青柳》のよう。雪岱の孫弟子だった、とこの前亡くなった金子國義の自伝に書いてあったな、などとつらつら思う。

昨日の昼休みは神田川沿いの桜を見た。桜は蕾の時のほうがピンク色が濃く見える。ひらくとほとんど白に近いうす桃色。灰緑色の苔で覆われた幹から枝も見えないのに咲いているのは少し薄気味悪い。花の蜜を吸っているのだろうか、満開の桜の枝にヒヨドリがやってきて喧しく啼いている、一本の桜の樹に1,2,3...4,5羽もいる。ヒーヨ、ヒーヨ、ヒーヨと啼くたびに、枝が大きく揺れる。

小川国夫『回想の島尾敏雄』(小沢書店)をポラン書房で見つけて読んでからというもの、島尾敏雄のことがにわかに気になりだし、図書館で『島尾敏雄全集』を数冊借りて「はまべのうた」「出孤島記」「出発は遂に訪れず」「孤島夢」「その夏の今は」などを拾い読みをしながら、未読だった、島尾ミホ『海辺の生と死』(中公文庫)を読んで、その生々しさにひどく心打たれる。

そんな頭なので、今年は満開の桜を眺めていても、しきりと島尾敏雄の小説世界を思い出してしまう。あの理不尽極まりない戦争からたった70年しか経っていないのだ、という気がする。

方法はいろいろでも、一見つじつまがあわないようでも、それは、未知の幾何学のように、揺るぎない論理にしたがっている。それは、直感では理解できても、合理的な順序で表現したり、理由づけをすることは不可能な、なにか、だった。彼は思った。ものにはそれ自体の秩序があって、偶然に起こることなど、なにもない。では、偶然とは、いったいなにか。ほかでもない、それは、存在するものたちを、目に見えないところで繋げている真の関係を、われわれが、見つけ得ないでいることなのだ。(アントニオ・タブッキ著/須賀敦子訳『遠い水平線』白水社、1991年)