しっぷ・あほうい!

或る日のライブラリアンが綴るあれやこれや

夏休み読書で、田中純『過去に触れるー歴史経験・写真・サスペンス』(羽鳥書店)。著者の『冥府の建築家』には感銘を受けたので、第2章のアーカイブの旅はスリリングだった。 「死者から選ばれている」と思い込むに至るのは、気の遠くなるようなアーカイブ探索をつづけた著者だからこその感慨だろう。

芸術家のモノグラフを執筆する著者たちが何の躊躇もなく「資料がない」といった弁明をするたびにかすかな苛立ちを覚える、と著者は書くのだが、この点についても首肯するし、鍵のかかった日記帳を開けたとき「自分はこの日記を読んでもよいのか」という唐突な疑念に襲われたというのもしごく真っ当な反応だと思う。 ひょっとすると、この日記や手紙を通じて死者の秘密を暴いてしまうかもしれない、という「死者への負債感」。こういった根源的な怖れを欠いた書物はやはりどうかと思う、というわけで、『須賀敦子の手紙』はやはりどうしても引っかかるのです。しつこいようですが...。

 『過去に触れる』の感想に戻ると、ところどころ引っかかるところもあって、例えば「サスペンス映画とは引き延された写真的時間ではなかろうか」と著者は書くのだが、わたしが読めていないだけなのかもしれないけれど、ここのところはどうもピンと来ない。また、口絵のジゼル・フロイントが撮影した、小さなキンポウゲの花を手にしたベンヤミンの写真を「キンポウゲという女を「断首」していたのである」と読解するところなども(うーん、そんな大げさなものなのかなあ、と。たんに川辺を散歩していて小さな花が咲き乱れていたら、そのひとつを摘んでみるくらいのことは、何の気なしに誰でもするのでは?)。それよりも、このカラー写真が明治期の着色写真のようにへんに人工的な色味を帯びていることの方がわたしには気に掛かった。

蓮實重彦「伯爵夫人」おぼえがき

『新潮』2016年4月号掲載の蓮實重彦『伯爵夫人』を読んで、そのあられもない小説に唖然とする。エッジの効いた鋭い言葉の数々に舌を巻いてきた者としては、「老いてますますさかん」という言葉がぴったりな精気漲るこの小説を読んで、マノエル・ド・オリヴェイラのようにいつまでもお元気で長生きしていただきたいなと切に思うのであった。

冒頭で「欧州」の「欧」の字が旧字になっていて、はて、これは?と思うのだが、「活動小屋」「活動写真」という言葉が見つかるので、なるほどこの小説の舞台は戦前、しかも少し読みすすめるときな臭くなってくる支那事変以降なのだと気付く。従妹の蓬子は『淑女は何を忘れたか』の桑野通子(地球儀をまわしてぴたっと止めるシーンや「口をとんがらせる」に)をどこか思い起こさせるし、伯爵夫人が啖呵を切るような江戸弁が冴えわたる辰巳芸者に豹変するところは藤純子のお竜さん、男色の平岡は三島由紀夫ケイ・フランシスはルビッチ『極楽特急』(1932年)のため息が出るほど美しい女優ときて、ああ、そうか、これは蓮實先生によるルビッチばりのソフィスティケイテッド・コメディ、艶笑小説なのか知ら?とぴんときたのだった。まあ、でも、艶笑小説――というよりもほとんどポルノグラフィ?だから仕方ないのだろうが、過剰な性的描写が延々と畳み掛けるように続くのが、濃厚なフォアグラを口腔にこれでもかこれでもかと無理やり押し込まれているかのようで読んでいてちょっと辟易してしまったし、やや度が過ぎるのではないかとも…。万事、匙加減重視のわたしのような者にとっては。もちろん、これは受け手の嗜好もあるけれど。

わたくし的には、ルビッチのようにドアの向こうで展開されることを匂わせる程度で「イット」を描いていただけるともっと好みだったのにな、と思うけれど、今は1930年代ではなく、この2016年という野蛮な時代に差し出されるのだから、これくらいの過剰さで丁度釣り合いが取れているのかもしれない。というか、むしろ戦争というグロテスクに釣り合うための過剰さなのかも知れない。文中でたびたび警句のように示されるように、世界の均衡などというものはちょっとしたことで崩れてしまうものなのだから。

やはり小説の悦びは細部にあるのですと言わんばかりに、ディテールがすばらしくて「コミュニズム」を「コンミュニズム」と表記するとか、断髪の和製ルイーズ・ブルックス男装の麗人、白木屋に同じタオルを一ダース届けさせるとか、ニッキ水とか、バイエルのアスピリンとか、欧州の小説の読み過ぎで結婚前に一度は気絶したい(わたしも着飾った上での失神に憧れた時期がありましたわ!)とか、蒲田時代の松竹の活動屋とか、周到にちりばめられたそれらを見つける愉しみがそこかしこに。

そして、極めつけに小津安二郎の文字が躍り出る…! しかも、作品名とともに二度も。何ですか、このわくわく感は。と、にんまりを通り越してあやうく声をあげそうになってしまう。まるでパラマウント映画。戦前の『キネマ旬報』を通読しているかのよう。「とんがらかす」という言葉が散見されるので、とんがらかっちゃダメよ、という渡辺はま子の声が頭のなかでこだまして、またしても思い浮かべるのは聡明ではねっ返りの姪という役柄がぴったりだった『淑女は何を忘れたか』における桑野通子。ばふりばふりの回転扉は角度120度の贅沢。「男装の麗人」にターキーや川島芳子、さらにそこから『間諜X27』のディートリッヒを思い出し、「帽子箱」にボリス・バルネット、「仔犬を連れた貴婦人」にチェーホフ、戦争に傾斜してゆく時代の描写に久生十蘭のあの素晴らしき小説『魔都』をおもう。金井美恵子だったら伯爵夫人の装いのディテールをそれこそ布地―クレープデシンとか―からドレープの具合まで緻密に描いただろうなあ。いやはや、これぞ粋でゴージャスで洗練された極上のエンタテインメント。フルコースで愉しませていただきました。

同時に我々は「貧乏人は蓮實の真似をするな」(浅田彰)をしっかと肝に銘じねばなりませぬ。ついうっかり手を出すと伯爵夫人のあの骨ばった細い指でぴしゃりと叩かれること必至。これは上流階級の方にしか書けない小説なのであって、わたくしどもは間違ってもこの方の真似なぞしてはいけないのである。

しかし、ここで淀川長治さんが御大を「ニセ伯爵」(シュトロハイム『愚なる妻』)と呼んだことが、どうも気に掛かってくる。

伯爵夫人とは誰か?

倫敦の高級娼婦でもあった正体不明の伯爵夫人は、フローベールが「ボヴァリー夫人はわたしだ」と言ったように、ニセ伯爵としての作者・蓮實重彦そのものだったのだろうか、とかなんとか、ふたたびつらつらと思い巡らす。ああ、それにしても愉しい読書だった、満たされた、ぷへー。

お知らせ3つ

黄金週間のあいだに参加した冊子が刊行されたのでそのお知らせです。まずは、真治彩さん編集の『ぽかん』05号で附録の「ぼくの百」を担当しました。大切な本を100冊選んでよい、という読書する人間にとっては夢のような企画。拙い文を林哲夫さんの大へん素敵なコラージュで飾っていただいて感激です。あの本の次にはこれかなあ、この本だけはどうしても入れたいな、など、とても愉しく選ばせてもらいました。一覧性がありますができれば1から順に100まで読んでいただけると書いた方としては嬉しく。こんな機会を与えてくださった編集長の真治さんに感謝します。詳しくはこちら⇒ぽかん編集室

それから、河内卓さん編集の『北と南』Vol.4(特集:川)に短い文「河太郎のほうへ」を書きました。伊達得夫と那珂太郎の筆名と中洲にあったブラジレイロという喫茶店について。こちらは、野崎歓さんや山崎佳代子さん、菅啓次郎さんなど、豪華執筆陣。こんな場所に紛れ込んでよいのだろうか...。巻頭の藤部明子さんの川の写真も素敵。よろしければぜひ。

北と南/河内 (@kita_to_minami) | Twitter 

それから、これはけっこう前なのですが、以前書いた「spira/cc」という書評(のようなもの)がオンラインで購入できるようになりました。こちらもよろしければどうぞ。

01. 中野もえぎ 「河野道代『時の光』を読む」紙本版

05. 中野もえぎ 「わたしも葉書でドナルド・エヴァンズに」紙本版

PrintRooms - store

 

どこかでお目にかかれると嬉しいです。

花見散歩

日曜日、東京のソメイヨシノが満開との報。15時頃から雨が降るともいうので、午前中のうちにいそいそと支度して散歩に出掛ける。東京女子大学の構内に、花桃と思しき白い花が枝にみっしりとつらなって咲いている。満開の八重咲きの白。遠目だと少しさみしい印象の山茱萸も目に入る。わたしは控えめな感じのするこの山茱萸という樹木が好きだ。善福寺公園までの道のりに種類の違うミモザがそれぞれ満開になっているお宅があり、しばらく立ち止まって見とれてしまう。房状になっている濃い黄色のと、明るいレモンイエローのと。上からなんだか視線を感じるなと思ったら、二階のベランダの角から黒目がちの柴犬が顔をせり出してじっとこちらを眺めていた。わたしのなかではミモザは祖母の花なので、老人ホームにいる祖母を思い出してしまう。祖母がミモザを詠んだ歌。

堀越しのミモザの影の切れ目より四月の海の風を見ている

善福寺公園はうす曇りにもかかわらず大勢の花見客と子どもたちで溢れかえっていた。大人二人の花見はぽつんとしている。無言のままぼんやりと池のほうに視線を泳がせたり、しんみりお重の中身をつついたりと、どこかさみしそう。外国人観光客のカップルが水をぱしゃぱしゃさせながら、白鳥のボートに乗っている。狭い船内に窮屈そうな身のこなしで、軀の大きな白人男性が生真面目な顔つきでいっしんにボートを漕いでいるさまは、どこか滑稽だ。水面に向かって撓んだコブシの白い花がゆらめく。池の端に植わった、釣鐘状の小さなレモンイエローの花をたくさんつけたトサミズキも夢のように美しい。キンクロハジロは黒と白がシックな水鳥なのだけれど、頭のうしろに寝癖のような羽毛がしゅっとついているのが、なんだかプレスリーのリーゼントの髪型を思い起こさせて可笑しい。ニワトコの緑があんまり鮮やかで、こんなにきれいな緑色だったかなと思う。池をぐるりとまわって対岸から眺めてみても、ニワトコの生えているそこだけが発光しているように緑が鮮やかだった。シダレヤナギの若芽が風にたなびく姿はまるで雪岱の版画《青柳》のよう。雪岱の孫弟子だった、とこの前亡くなった金子國義の自伝に書いてあったな、などとつらつら思う。

昨日の昼休みは神田川沿いの桜を見た。桜は蕾の時のほうがピンク色が濃く見える。ひらくとほとんど白に近いうす桃色。灰緑色の苔で覆われた幹から枝も見えないのに咲いているのは少し薄気味悪い。花の蜜を吸っているのだろうか、満開の桜の枝にヒヨドリがやってきて喧しく啼いている、一本の桜の樹に1,2,3...4,5羽もいる。ヒーヨ、ヒーヨ、ヒーヨと啼くたびに、枝が大きく揺れる。

小川国夫『回想の島尾敏雄』(小沢書店)をポラン書房で見つけて読んでからというもの、島尾敏雄のことがにわかに気になりだし、図書館で『島尾敏雄全集』を数冊借りて「はまべのうた」「出孤島記」「出発は遂に訪れず」「孤島夢」「その夏の今は」などを拾い読みをしながら、未読だった、島尾ミホ『海辺の生と死』(中公文庫)を読んで、その生々しさにひどく心打たれる。

そんな頭なので、今年は満開の桜を眺めていても、しきりと島尾敏雄の小説世界を思い出してしまう。あの理不尽極まりない戦争からたった70年しか経っていないのだ、という気がする。

方法はいろいろでも、一見つじつまがあわないようでも、それは、未知の幾何学のように、揺るぎない論理にしたがっている。それは、直感では理解できても、合理的な順序で表現したり、理由づけをすることは不可能な、なにか、だった。彼は思った。ものにはそれ自体の秩序があって、偶然に起こることなど、なにもない。では、偶然とは、いったいなにか。ほかでもない、それは、存在するものたちを、目に見えないところで繋げている真の関係を、われわれが、見つけ得ないでいることなのだ。(アントニオ・タブッキ著/須賀敦子訳『遠い水平線』白水社、1991年)

ジュリアン・グラック『ひとつの町のかたち』を読む

お正月休みに、ジュリアン・グラック『ひとつの町のかたち』(書肆心水、2004年)を読んだ。

北村太郎がじしんのことを「街っ子」と呼んでいたように、わたしもまたじぶんを「街っ子」であると思っている。帯文の「少年と町」というのはわたしの好物であるのに、何度か書店で手に取りながらも今まで見送られたのは、ナントという町にあまりなじみがなかったせいなのか。

グラックのこの本は、だいぶ遅れてしまったけれど、わたしの目の前にとうとうやってきた。まだ見ぬナントの町の地図を眺めてから目次を見て、あまりに好みの言葉が並ぶのでおどろいた。これは、たぶんわたしの本だな、と直感した。「路面電車」「名所ぎらい」「川辺と港」...お、わかる、「名所ぎらい」わかる、いいな。これは好きだな。「寄宿舎での集団散歩」などという文字を見つけて、偏愛してやまないジャン・ヴィゴの『新学期・操行ゼロ』を思い起こしていたら、ちゃんと本文の終りのほうにヴィゴの名が出てくるので、『操行ゼロ』の少年たち(というか悪ガキ)が枕投げをして羽毛が舞い上がる美しいシーンがすぐさま想起され、さらに大好きなジャン・ルノワール『のらくら兵』の原作者まで登場するので、あの映画『のらくら兵』の、黒のベタ塗に白文字で書かれたなんともユーモラスな漫画めいたタイトルバックを思い起こして、読みながらさっそくにんまりしてしまう。

グラックの立ち位置は極めて微妙なものだ。
おそらく時代にもよるのだろうが、ベンヤミンのベルリンの幼年時代におけるささやかなディテールにみちた親密さや豊かさ、あるいは、プルーストの精緻な言葉が紡ぎだす過去への郷愁からは、やや距離を置いているように思われる。著者はパサージュにはさほど心動かされなかったとも書いている。「......予備知識を持たない訪問者たちをごく自然に夢に誘うポムレ・パサージュは、とりとめのない町の散策を通して私のなかに生まれつつあった、半ば夢見られ半ば住まわれた想像の景色の調和のなかで、それほどの位置を占めなかった」(p.105)本文中にベンヤミンの文字はない。

冒頭に「過去と出会って自己陶酔に浸り直すためではなく、私がそれらの街並みを介してなったものと、街並みが私を介してなったものとに出会うために」(p.22)とあるように、少年時代の回想を綴りながらも、著者の眼は意外なほどさめている。文学愛好者にとっては、ややうっとり不足といえばそうだが、この冷徹な町へのまなざしの先には、著者が地理学者だということもあるのだろう。この微妙な立ち位置が都会的というか、傍観者的というか、ややひねくれているというか(シモーヌ・ヴェイユにもグラックは懐疑の目を向ける)、都市におけるアノニマスな存在としての人間を感じさせるのが、わたしは好きだった。なにしろ、少年時代を回想していても、家族や友人を含め、個人的な人とのかかわりはほとんど出てこないのだから。とはいえ、郊外への遠出の散歩の様子が描かれた第4章は、少年時代の黄金色の時間を思わせて美しい。金雀枝やミモザ、ヒースといった植物に小説の中で出会う嬉しさ。太陽と鳥たちと蜜蜂。日曜日の香り。草上の昼食、ピクニック、川面を飛沫でさざめかせる春の驟雨。だんだん本文の言葉以外の想像が入り込んでゆく。ラ・コリニエール、と口遊むようにして唱えてみる――。

読後感は、どこから読んでいるのか、読み終えたのかもよくわからなくなるところが、ゼーバルトに少し似ていると感じた。もっとも、あんなふうに生真面目に歴史の痕跡を幻視するところはないけれど。まるで気ままな散歩のように、あちらこちらへ道草しながら、過去と現在、回想と思索がさまざまに織りあわされてゆく。この抑制の効いた絶妙なさじ加減。しかし、一見気ままに見える散歩には、じつは彼なりの秩序があるようだ。ここでもグラックはボードレールの気ままな「遊歩」からは彼なりの距離を置き、歩く場所や時間が自分の自由にならない「歩行」のほうが町からの働きかけが多いといって、こちらを採るのである。黄昏と憂鬱のボードレリアンを気取るには、あまりに時代が進んでしまったということか。

著作がジョゼ・コルティ社から出ているというのも、瀧口修造ファンにとっては嬉しいことだった。処女作はガリマール社に断られてから持ち込まれたジョゼ・コルティ社で出版され、その後ずっと同社で出版されたというのもいい話だし、にもかかわらず、ジョゼ・コルティが遺言でガリマールからの全集出版を許可したというのもいい。

年初に「わたしの本」と出会えたことがしんそこ嬉しい。豊崎光一のあだな「暗鬱な美青年」はグラックの小説から来ているのかな。

札幌のテンポラリースペースというギャラリーで、12月9日から開催される吉増剛造展のタイトルが「水機ヲル日、...」となっているのに気づく。それで、7月末に早稲田で見せていただいた大判の原稿の束のことを「水をくぐって染められた糸で織られた「機織りもの」のような気がしてきました」と手紙に書いてお送りしたことを思い出した。昔の「機織り」の話からはじまる、吉増さんのお母様が書いた『ふっさっ子剛造』(矢立出版)を偶然に読んでいたから、きっとそんなことを書いたのだ。お母様の語り口がほんとうに魅惑的で、すっと引き込まれた本。

夜、amazonから届いた『詩の練習』13号を読む。「シンカンセンニナンカ乗ルモノカ......」という幼児の怒りの小聲に耳を澄ます。